真鶴町の岩海岸にある頼朝船出の浜の石碑です。
『吾妻鏡』治承四年(1180)八月二十八日の条に記されている文章。
武衛は、土肥の真名鶴崎より船に乗り、安房国の方に赴きたまふ。実平、土肥の住人貞恒に仰せて、小舟を粧ふと云々。この所より、土肥彌太郎遠平をもって御使となし、御台所の御方に進ぜられ、別離以後の愁緒を申さると云々。
翌日の文章。
武衛、実平を相具し、扁舟に棹さして、安房国平北郡猟島に著かしめたまふ。北条殿以下の人々、これを拝し迎へ、数日の鬱念一時散開すと云々。
この前段の二十七日の文章に、先に北条氏らが土肥郷岩浦より舟で房州を目指したとありますので、二隊に別れの船出であったことが読めます。また海上で三浦の輩に相逢ふとも書かれています。
この『吾妻鏡』の文章を読みますと、その端々に見えるのは、この頼朝の逃避行は予定された行動であったという事でしょうか。その段取りをつけたのは土肥実平で、頼朝と同じ船に乗っていることからも想像できます。