人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ー-石橋山古戦場跡からJR早川駅まで歩くー-

2022-02-13 17:02:14 | 日記

さて石橋山古戦場跡にJR東海道線を利用して行く最適ルートはあるのでしょうか?Wedで検索しても見つかりませんでしたので、自力でルートを探すしかありません。根府川から石橋山にはなんとか辿り着きましたが、帰りは同じ道は戻りたくなく、案内図の佐奈田霊社からの道とは別の道ですが、根府川から来た道をそのまま進み、佐奈田与一ゆかりの宝寿寺の脇から山越えで早川に下る道を選びました。

宝寿寺の先はみかん畑の中を山の上まで登ります。途中、新幹線と東海道線が並行して走り、同時にトンネルから出てくるのが見える場所とか、みかん畑と海のコントラストが美しい場所があったりして、景色は申し分ないのですが、山越えのこの登りはどうにもきつい。そして道に迷ったらグーグルマップを使いました。みかん畑の中でも正確に道案内してくれて頼りになりました。

幾筋かあるJR早川駅に下る小道なかでは、偶然でしたが、今回選んだ道は疲れが吹き飛ぶほどの感動を与えてくれました。みかん畑の両側に積まれた石垣、遠くに見える海そして丹沢の山々、たわわに実るみかんの実やオリーブの木。日本というよりヨーロッパのどこかにいるような気分が味わえました。この道は上ってくる道ではなく、下っていく道だと確信しました。そうすると石橋山へは根府川を起点にして早川まで行くコースがお薦めかもしれません。

今回のブログは道中案内にしては取り留めもなくまとまらない文章になってしまいました。歩いている自分自身が試行錯誤して歩いているので止むを得ないですね。石橋山古戦場跡に行くコースはまだまだ研究の余地がありそうです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石橋山古戦場跡で見た景色 ①猿蟹合戦

2022-02-13 15:11:37 | 日記

石橋山古戦場跡の石碑がある付近で猿に出くわしました。首にビーコンのようなものが付けられていましたので、多分このあたりでは名の知れた札付きのボス猿かと思います。威嚇しましたが、逃げる様子もなく襲う姿勢をみせていました。跳びかかられて噛みつかれては大変と、脅しながら後づさり。どうも分が悪く、幸いにも車が通り助かりました。

写真の猿です。私はかに座の生まれなので、まさに石橋山の猿蟹合戦になるところでした。猿に比べれば蟹は圧倒的に弱く、私は頼朝かと思った次第です。帰り際に同じ猿をJR東海道線のトンネルの入口のところで見ましたが、悠々とメスざるにグルーミングをさせていました。

いつもならこの場所には参拝客は来ないのに、最近は大河ブームのせいで通る車が多く、イライラしていたのかもしれません。申し訳なく、私も早々に石橋山をあとにしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ー-石橋山古戦場跡・佐奈田霊社ー-

2022-02-13 11:31:12 | 日記

ようやく今回の小旅行の目的地、石橋山古戦場跡・佐奈田霊社に着きました。現地を見て、少しも平地のない急峻な山肌で300人と3000人の軍勢が敵味方に分かれてどう戦ったのか?先日のNHKの放送の場面では大庭景親の軍勢が横に隊列を組み展開していましたが、現地を見る限りそんな場所は皆無でした。今は山一面に開墾されたミカン畑が広がり開けていますが、1180年当時は鬱蒼とした山林であったと想像されます。頼朝の軍勢は多勢に無勢の中どう戦うかを考えたうえで、石橋山付近に布陣したのではないかと妄想してしまいました。いわゆる地の利を知った者が戦うゲリラ戦ですね。絶対負けられない頼朝軍は奇跡を期待したのではなく、生き残って窮地を脱出する戦法を採ったと考えてしまいました。

佐奈田霊社では、佐奈田霊社に参拝し、余一塚、文三堂を見学し、そこの案内板を次の通り、書き写しました。  タイトルは、「石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂」

石橋山古戦場は、治承四年(1180)八月二十三日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。 ここで、頼朝の軍は平家方の大庭景親、伊東祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々よって助けられ、落ちのびました。その後勢力を盛り返し、平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。 与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田与一義忠その家臣文三家康を祀ってあるところです。 佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟俣野五郎景久と一騎打ちになり、景久を組み伏せましたが、刀が抜けず、敵方の加勢により討ち取られてしまいました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、八人を討取って壮絶な戦死を遂げました。 『吾妻鏡』には、石橋山合戦後の建久元年(1190)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。その後、佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。 (小田原市教育委員会)

百聞は一見に如かず。是非訪れてみたい場所ですが、如何せんJR根府川駅とJR早川駅のほぼ真ん中で行くのに不便な所です。交通の便の良い現代でもそうですから、まして840年以上も前はどうでしょうか・・・。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ー-JR根府川駅から石橋山古戦場まで歩くー-

2022-02-13 09:46:27 | 日記

真鶴町にあるしとどの窟を見学し、民家の中の小路を抜けJR真鶴駅に戻ります。歩いて20分位ですが急な階段を上りますので結構足にこたえます。JR真鶴駅からJR根府川までは電車で5分位。誰もいないホームで昼食を兼ねた休憩をとり、石橋山古戦場跡への道程を確認しました。駅からは旧道沿いに国道135号線との信号のある合流地点まで行き、合流地点からまた旧道に沿って石橋山古戦場まで歩きます。右側に相模湾、時々正面に大山が眺望できる場所がありますので、長い道のりですが退屈せずに歩けました。この道筋から見る大山の姿は美しい。東側から見るのとは違って円錐形の単独峰であることがはっきりと分かります。この山の形であれば、古代から神が宿る山として信仰の対象となった理由が納得できます。

さて根府川について案内板からの情報です。根府川(片浦海岸)は箱根火山の外輪山で、尾根沿いには戦国時代の土塁が残され、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されていた。またこの地から切り出された石は安山岩(根府川石)で江戸城の石垣用に使われたこと等が書かれていました。箱根山の外輪山なので石橋山に向かう街道沿いは一方は急峻な山、片方は断崖絶壁と海。とても大軍勢が迅速に移動できる場所ではなかったと思われます。

さらに進み、右手に正寿院の屋根が見えたら、そこが米神漁港の集落。そこから500m位で石橋山古戦場跡への入口に着きました。小田原市の源頼朝ののぼり旗と石橋山古戦場・佐奈田霊社入口の案内板が立っていますので迷うことはないと思います。JR根府川からは1時間位の行程。歩きだからよかったのですが、鎌倉方面から車で来るのはお薦めできませんね。道が狭く分かりずらいのと、佐奈田霊社の駐車場も5台程度しか駐車できませんので、土日祝日は混雑して大変だと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする