人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --湯河原編 ⑦桜郷史跡--

2022-02-24 19:41:04 | 日記

しとどの窟バス停からトンネルを潜ると平場に行き当たります。そこには桜郷史跡由来と書かれた案内がありました。

箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山嶽宗教史上有数の場である。随ってこの地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷の豪族土肥氏城塞であり、治承四年八月二十四日源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとどの岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡である。・・・以下省略。

『吾妻鏡』には、石橋山の合戦のあと、武衛椙山の中に逃れしめたふ。・・・。二十四日、武衛、椙山の内、堀口の辺に陣したまふ。・・・。武衛、後ろの峯に逃れしたまふ。・・・。景親、武衛の跡を追いひて、嶺渓を捜し求む。・・・。時に梶原平三景時といふ者あり。・・・。晩に及びて北条殿参着したまふ。ここに箱根山の別当行実、弟の僧永実を遣わし、御駄餉を持たしめて、武衛を尋ねたてまつる。・・・。

そこで頼朝は箱根権現に行ったことになっていますが、本当は行ってないという説を唱える郷土史家もいます。私も多分箱根権現までは行っておらず、二十四日から数日間、このしとどの窟に隠れていたと思います。しとどの窟は土肥実平の城山の内にあり、箱根権現の行場であったとすれば、土肥実平は、最初からこの場所を身を隠す場所として決めていたのでしょう。実際現地に行ってみますと深い山中で敵からも容易に見つけられる場所ではなかった推測されます。

写真はしとどの窟の上部でここから15分位下りますとその岩窟があります。

 

 

 

 

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城山頂上(土肥城趾)から見た景色

2022-02-24 19:21:17 | 日記

城山山頂からの景色が素晴らしく、暫し休憩・ランチタイムにしました。写真でも分かりますが、城山・初島・伊豆大島はほぼ一直線で、湯河原火山を含め火山帯を形成しているのだと納得しました。実地検分はやはり歩いてみないといけません。頂上に着き、周りを眺め、ここまで来たコースタイムを計りますと、女性の足でも登って来ることができ、実平の妻が食料を運んだのは事実であったと思うようになりました。ここからしとどの窟のバス停までは30分位、さらに窟まで20分。大した距離ではありません。そしてしとどの窟。そこは不思議な空間でした。

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鎌倉を知る --湯河原編 ⑥城山山頂(土肥城趾)--

2022-02-24 17:13:24 | 日記

見どころ満載の城願寺をあとにして次の目的地である城山に向かいました。はじめは舗装された道を登っていきますが、ジグザグではなくほぼ真っすぐの道が続きます。民家も結構ありますので住民の方も毎日の上り下りが大変かと思いつつ、一歩づつ歩みを進めました。改めて地図を見直せば、城山山頂の標高は563mあります。鎌倉アルプスの最高点でも150m強なので海抜から一気に登るのはキツイ訳です。時々振り返り来た道を眺めますが、湯河原沖相模湾の海はキラキラと輝き疲れを癒してくれます。

さて今朝、JR湯河原駅を下りたらすぐに観光案内所に行きしとどの窟までの観光案内図をもらいました。その際に係の人から昨年の大雨で登山道の数か所が通行不能になっているので、幕山公園の方から登った方が良いと勧められました。しかしこの城願寺から城山経由でしとどの窟に行くコースは、土肥実平の妻がしとどの窟まで食料を運んだという故実を体感することが目的なので譲れません。最終的に自己責任ですからと言われ、このコースに来たのですが、結果的にはなんら問題はありませんでした。通行止めの場所のすぐ横からは山道の登山道があり、それを進めば途中で舗装道路に合流しました。

10時少し前に城願寺を出、11時30分には城山山頂に到着しました。1時間30分でほぼ500m登ったことになります。今年70歳になる老人の足にしてはまず上出来と思いました。写真は城山山頂の風景。南は相模湾で初島から伊豆大島、東は幕山から真鶴の町が見え、真鶴半島の三石も眺望できます。さらにその向こうには三浦半島、更に相模湾・東京湾の彼方には房総半島の工場地帯や山々が眺望できました。果たして頼朝が上陸した千葉県鋸南町の猟(竜)島はどこか探しましたが、多分正面の山の麓だろうと想像し、約60km先まで小舟で7人も乗って渡るのは至難であるなど思いを廻らしました。

 

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鎌倉を知る --湯河原編 ⑤城願寺の七騎堂--

2022-02-24 15:43:01 | 日記

城願寺の境内には、本堂のほか七騎堂という建物が建っています。この七騎堂に祀られているのは、安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、源頼朝、土屋宗達、土肥実平、田代信綱の七武将。この七人が治承四年(1180年)八月二十八日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びました。土肥実平の子である土肥彌太郎遠平は、『吾妻鏡』によれば、御使として御台所の御方に進ぜられ、別離以後の愁緒を申さると云々と書かれています。

また「七騎落」という謡曲があるようで、その説明書きもありました。

謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と思愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。 石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。 主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合の和田義盛に救われ、歓喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。 城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大けん禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木造が収められている。

この謡曲に八というのは忌んだ数字で船に乗るのは七騎とありますが、『真名本曽我物語』には源氏にとってハという数字は大変めでたい数字であることか縷々書かれている箇所があります。八幡大菩薩、八正道・・・等々。この謡曲の創作者は八騎でなく七騎にするために悩んだのでしょう。その謡曲が現代まで伝わっているのですから、作者の思いは通じたと思われます。

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鎌倉を知る --湯河原編 ④城願寺 ビャクシンの木--

2022-02-24 14:46:48 | 日記

城願寺の山門をくぐり階段を上った先にビャクシンの大木があり目にとまりました。案内板を見ますと、このビャクシンの木は土肥実平のお手植えとされ、樹高 20m、胸高周囲 6m、国の天然記念物に指定され、樹齢800年以上(推定)と書かれていました。神奈川県内では最も樹齢が長く、神奈川の銘木100選にも選ばれています。

ビャクシンと言えば、鎌倉市内の禅宗の寺院には多く植えられ、特に建長寺の仏殿の前のビャクシンの木がよく知られています。蘭渓道隆が宋から持ってきたものと伝えられています。私はこのビャクシンがビャクシンのはじまりと思っていましたが、それ以上に古い木があるとは意外でした。土肥実平(生没年不詳)のお手植えなら、12世紀後半から13世紀初めであり、蘭渓道隆が来日した13世紀半ばより古いということになります。

何よりも火事にも遭わず、地震や津波・台風で倒れることなく、800年以上も生き永らえ、湯河原の町を見守ってきたと思うと、感慨深いものがあります。一見の価値はあります。是非訪れてみてください。

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