しとどの窟バス停からトンネルを潜ると平場に行き当たります。そこには桜郷史跡由来と書かれた案内がありました。
箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山嶽宗教史上有数の場である。随ってこの地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷の豪族土肥氏城塞であり、治承四年八月二十四日源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとどの岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡である。・・・以下省略。
『吾妻鏡』には、石橋山の合戦のあと、武衛椙山の中に逃れしめたふ。・・・。二十四日、武衛、椙山の内、堀口の辺に陣したまふ。・・・。武衛、後ろの峯に逃れしたまふ。・・・。景親、武衛の跡を追いひて、嶺渓を捜し求む。・・・。時に梶原平三景時といふ者あり。・・・。晩に及びて北条殿参着したまふ。ここに箱根山の別当行実、弟の僧永実を遣わし、御駄餉を持たしめて、武衛を尋ねたてまつる。・・・。
そこで頼朝は箱根権現に行ったことになっていますが、本当は行ってないという説を唱える郷土史家もいます。私も多分箱根権現までは行っておらず、二十四日から数日間、このしとどの窟に隠れていたと思います。しとどの窟は土肥実平の城山の内にあり、箱根権現の行場であったとすれば、土肥実平は、最初からこの場所を身を隠す場所として決めていたのでしょう。実際現地に行ってみますと深い山中で敵からも容易に見つけられる場所ではなかった推測されます。
写真はしとどの窟の上部でここから15分位下りますとその岩窟があります。