熊野速玉大社の境内の中に、巻頭写真に載せましたが「熊野御幸」の立派な屏風仕立ての石碑がありました。また熊野御幸(くまのごこう)を説明した案内板が設置されていましたので、これも書き写してきました。
中世、宇多上皇(第五十九代天皇)の延喜七年(907)から玄輝門院の嘉元元年(1303)までの三百九十六年間に上皇、女院、親王を合せて御二十三方、百四十回に及ぶ皇室の御参詣があり、これを熊野御幸と言って熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。 熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の御精進を数日間行われて後に御出発になる。白河天皇の天永元年九月の御幸には、総人数八百十四人、一日の食料十六石二斗八升、傳馬百八十匹と「中右記」に記している。 御幸の道順は、京都、住吉、和泉、紀伊半島海岸沿いに南下して田辺、中辺路、本宮、熊野川を下って当大社へ参拝、那智山、雲取、本宮、往路コースを逆行して帰京されるまで、およそ二十数日に及ぶ難行苦行のたびであった。熊野御幸によって熊野信仰は公卿、武士、庶民の間に流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠じられるなど、各方面に大きな影響を残している。
この案内板の文章は、非常にコンパクトに熊野御幸の内容がまとめられており、当時の様子がよくわかりました。総人数約816人が約20数日間に及び熊野御幸に出向くとなると、いったいいくらの費用がかかったのか?沿道の庶民はその支援のために労役を提供しましたが、その負担は大きかったと想像されます。後鳥羽上皇などは生涯で10カ月おきに28回とも29回ともいわれる熊野御幸に出向いています。その費用を誰が負担したのか?その目的は何だったのか?
『吾妻鏡』には残っていませんが、現地の人の話では、北条政子も2回熊野詣に来ているとのこと。もしそうだとすれば、まだ源頼朝が生きていた頃の話です。熊野本宮大社の大斎原に置かれ、今は宝物館にある湯釜、熊野速玉大社の神倉神社の538段の階段は源頼朝が寄進したものと伝わっていますが、史実かもしれません。そしてもし北条政子の熊野詣が本当だとすれば、実際に熊野詣をしてみた北条政子の眼に熊野御幸がどう映ったか?源実朝死後の政治判断にどう影響したか?妄想は膨らむばかりです。
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