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鎌倉幕府の基礎固めは2代執権 北条義時(1205.7~1224.6)と3代執権 北条泰時(1224.6~1242.6)の37年間の執権時代になされたと考えています。義時の時代に和田義盛の乱(1213年)、源実朝の暗殺、承久の乱(1221年)等を経て、鎌倉幕府における北条氏の地位が確立され、泰時の時代に鎌倉幕府の体制整備が図られました。やはり源頼朝の側にいた二人がまだ尼将軍政子が存命なうちに執権を務めていたことが大きく、実際、政子は大事なところで一族を支えていました。
さて北条泰時は40歳を過ぎて執権になり死ぬまでの18年間その職を全うしました。最初、伊賀氏の乱(1224年)や北条政子の死(1225年)などはありましたが、惣領(得宗)の権限強化、連署の設置、評定衆の設置、将軍御所の移転(宇都宮辻子1225年)、鎌倉市街地の整備(市街地の拡大や塔の辻の設置)、和賀江嶋の築港(1232年)、武家の法典である御成敗式目の制定(1232年)、朝夷奈切通の整備(1241年)、深沢大仏供養(1242年)などの施策を打ちだし、鎌倉幕府の体制強化に尽力しました。
なかでも私は「和賀江嶋の築港」に注目しています。泰時は源実朝が命じた唐船の建造失敗(1217年)を目の前で見ていたはずです。『吾妻鏡』には、寛喜四(1232)年7月12日 「勧進聖人往阿弥陀仏申請に就きて、舟船著岸の煩いなからんがために、和賀江嶋を築くべきの由と云々。武州殊に御歓喜ありて、合力せしめたまふ。諸人また助成すと云々。」 そして8月9日には「和賀江嶋その功を終ふ。」 とわずか1か月で和賀江嶋の築港が終ったことになっています。ただ現地に行って和賀江嶋を見ますと、使われている石は直径30センチ位、その数量も膨大で、とても1か月で工事が終わったとは思えませんでした。想像するに、それ位築港を急ぐ必要があったということでしょう。実際、和賀江嶋がもたらした経済効果はいかばかりだったでしょうか。鎌倉幕府の目と鼻の先にある港に遠く宋からの貿易船が着き、異国の陶磁器や書物などが陸揚げされ、それにより鎌倉幕府(北条氏?)は富を蓄えたはずです。なによりも鎌倉の海に港を造るという発想が素晴らしいですね。
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