宮の七里の渡し跡から暫く歩けば街道は丘陵地帯に差し掛かります。このあたり名鉄電車の桜駅付近になりますが、古くは平安時代以前から東国への街道が通っており、万葉集巻一273に高市黒人が7世紀後半に詠んだ歌があります。街道の南側は今の伊勢湾の深淵部で干潟が広がっており、歌に詠まれるほどの景勝地だったと思われます。
桜田へ鶴(たづ)鳴きわたる年魚市(あゆち)潟潮ひにけらし鶴鳴きわたる
目を閉じれば、松林の向こうに青い海が広がり、鶴の群れが「クワッ、クワッ」と鳴きながら飛んでいる姿が想い浮かびます。
さてしばらく歩けば笠寺観音に着きます。この寺の縁起は、平安時代、とある娘(後の玉照姫)が雨に打たれている観音様に濡れてはかわいそうだということで自分の笠を被せたところ、東国にくだるため通りがかった藤原兼平に見初められたという話がもとになっています。今でも厄除けや縁結びにご利益のある観音様として信仰の対象となっているようです。時代は下って江戸時代の松尾芭蕉の俳句にも笠寺を詠んだものがあります。
笠寺やもらぬ窟(いはや)も春の雨 (千鳥掛 この寺の縁起を聞きて云々・・・)
この句の意味について解説したものが手元になかったため、自己流に解釈すれば、「雨の漏れることのない岩屋の中では、止みそうになく降り続く春の雨(=五月雨)であっても笠はいらないでしょうね」ということでしょうか。幸いこの日は天気もよく笠は必要ありませんでした。
その先天白川を渡れば鳴海宿です。江戸時代より前は源頼朝が整備した鎌倉街道がありました。天白川を渡った先で鎌倉街道は丘陵の上を通り、東海道は丘陵の下部を通り鳴海宿に入って行きます。
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