人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

東海道中膝車 --吉原から由比ーー

2020-04-05 15:24:41 | 旅行

チャレンジ6回目。今回とたぶん次回の東海道歩きが最も景色が楽しめるのではないでしょうか。ただし富士山が拝めるという前提ですが・・・。天気予報で晴れるはずでしたが、富士山にはたっぷり雲がかかっていました。残念ながら今日は駄目ですね、諦めてひたすら歩くことにしました。

8時30分過ぎに吉原駅北口を出、最初の見どころは左富士神社です。広重の東海道五十三次の𠮷原宿の浮世絵に左側に富士山が描かれて名所になった場所です。今は製紙工場の間から辛うじて左富士が見えるかどうか。その先和田川の橋が平家越橋。治承四年(1180)の源平富士川の合戦の舞台となったところです。吉原の市街を抜け、王子製紙の工場がある富士を過ぎれば、いよいよ富士川橋です。この富士川橋手前の雁堤が公園になっていましたので、眺めのよいこの場所でお昼にしました。時刻は11時30分。写真にある桜並木の奥に雄大な富士山の姿が見えるはずでした。本日のクライマックスになるはずの富士川橋梁の渡橋。新幹線では何度も通過し、必ずカメラを向ける絶景ポイントです。

蒲原へ行く街道は山道を登ります。富士川の氾濫を避け、山伝いに街道を通したのでしょう。東名高速が脇を通っていますが、新坂橋という誇線橋を渡り、蒲原宿に入ります。蒲原宿は、広重の浮世絵では何故か雪景色でそれも夜。滅多に雪が降らない場所なのになんとも不思議な景色です。今の蒲原は街道の雰囲気を残し、来訪者を楽しませてくれます。蒲原を発ったのは13時30分。県道396号線沿いを由比に向かいます。

由比の町は「由比桜えび通り」を歩きます。途中、東海道広重美術館のある本陣跡、由比正雪の生家である正雪紺屋などを見ながら、本日の終着である由比駅についたのは15時15分位でした。まだ陽も高いので駅前の食堂に入りビールで一杯。桜えび定食は1400円ですが、夕飯にはまだ早いので桜えびのかき揚げをいただきました。これがなんとも美味しく、20㎞歩いた疲れも吹っ飛びました。由比駅を15時45分の熱海行きに乗り、18時前には藤沢に着きました。

 

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自宅で心豊かに過ごすために

2020-04-04 10:49:30 | 日記

リタイヤしてから始めたいくつかのボランティアの仕事もこの新型コロナ禍のため休止を余儀なくされています。こういう時は勉強してきた歴史の知識が生きてくるから不思議なものです。これまで戦争を知らない子供たちの世代は恵まれた時を過ごしてきたわけで、過去にはもっと悲惨な出来事があり、それを乗り越えて今があることを忘れてしまっているのではないでしょうか?最も身近な大惨事は2011年3月11日の東日本大震災。この時は数万人の市民が亡くなっています。その大惨事を乗り越えてきた今、新型コロナ対策に立ち向かい、必死に戦っている国や自治体の首長の方、病院関係者の方などに感謝こそすれ、ああだこうだと批判の言葉を投げかけるのはいかがなものかと、最近反省するようになりました。経験のないことに試行錯誤をして最善を尽くそうするのは当然のことであり、専門家でもなく知識も十分でない人がコメントしている姿をみていると、ちょっと心配になります。

何もできない身としては、できるだけ周りにる働いている人に迷惑をかけないように過ごすだけ。それには言われている三密(密閉空間、密集場所、密接場面)を避けるために、自宅で過ごすようにしています。ただそれだとお医者さんから高血糖・高血圧の予防にと薦められている運動ができませんので、適度に散歩はしています。あとは普段できないこと、昔やりたかったけど出来なかったことを思い出してはやるようにしています。

その一つは、まったく読む気がしなかった分厚い本の精読、宗教や思想史では、『華厳の思想』『タオ自然学』『インド思想史』『ブッダ伝』など、鎌倉ゆかりの文学では、『三四郎』『それから』『門』の漱石三部作や『鶴は病みき』や泉鏡花の小説などです。そしてこれは全くの思いつきでしたが、倉庫に捨て置いたレコードとプレーヤーの再利用です。当然ながらお金はかけられませんので、2007年に買ったBOSEのウエーブミュージックシステムをアンプ・スピーカー代わりとし、アイワのプレーヤーとの接続に必要なジャックは購入しました。レコードは高校生と大学生そして社会人となり家庭を持つまでに買い求め、大事に取って置いたもの。40~50年位前のレコードです。針を置いて音が出た瞬間、心は過去にタイムスリップしていました。やはりアナログの世界はいいものです。音源としてのレコードの価値を改めて再認識しました。これはお薦めですね。

 

 

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鎌倉を知る --原宿の松蔭寺ーー

2020-04-02 16:35:59 | 日記

駿河には、すぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠

旧東海道を歩き、沼津を過ぎ原宿に入ると臨済宗妙心寺派のお寺である松蔭寺があります。このお寺は何が有名かと言えば、白隠禅師(白隠慧鶴)の終焉の地であり、白隠禅師のお墓があります。鎌倉にいますと、臨済宗のお寺では建長寺、円覚寺が知られ、蘭渓道隆とか無学祖元や夢窓疎石の名前を聞いても、白隠禅師はあまり馴染みがありません。二年前に円覚寺などで白隠禅師二五〇年遠諱が盛大に行われましたので名前を記憶してる方はいるかもしれません。

白隠禅師(1685~1768)は「臨済宗中興の祖」と言われています。白隠はここ駿河国駿東郡原宿で生まれ、元禄十二年(1699)、15歳のとき、原の松蔭寺の単嶺和尚について得度(岩次郎改め慧鶴)しました。若い時は諸国行脚で修業し、信州飯山の正受老人のもとでの修業中に悟りを得たそうです。なんでも老婆に箒で撲られ、気を失って気づくと、不意に悟りが開けたと伝っています。松蔭寺の住職となったのは32歳のとき。その後、白隠教団をつくり、布教のため日本各地の巡錫と著述活動により、白隠の名声は天下に響きました。民衆に禅が広まったのは白隠の生涯84歳までの熱心な布教のおかげと言って過言ではないでしょう。

臨済宗では『臨済録』『碧巖録』『虚堂録』などを講じ、さらに参禅のときに公案を与え、あとはひたすら坐禅の修業で、悟りを得ることを促します。しかしこの修業は厳しく、公案なども難解で、民衆がこれを理解し、悟りを開くなど無理なことです。そこで白隠は『坐禅和讃』を作りました。この和讃は「衆生本来仏なり」ではじまり「此の身即ち仏なり」で終わりますが、我が身はもともと仏であり、その仏の心を坐禅三昧の修業によって得るというものです。分かりやすいい文章で、朗々と唱えるのですから、白隠ファンも増えるわけです。

私も京都妙心寺の「白隠禅師二五〇年遠諱」に参加したとき、般若心経とともにこの坐禅和讃を坐禅の都度、唱えました。

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