人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --湯河原編 ⑥城山山頂(土肥城趾)--

2022-02-24 17:13:24 | 日記

見どころ満載の城願寺をあとにして次の目的地である城山に向かいました。はじめは舗装された道を登っていきますが、ジグザグではなくほぼ真っすぐの道が続きます。民家も結構ありますので住民の方も毎日の上り下りが大変かと思いつつ、一歩づつ歩みを進めました。改めて地図を見直せば、城山山頂の標高は563mあります。鎌倉アルプスの最高点でも150m強なので海抜から一気に登るのはキツイ訳です。時々振り返り来た道を眺めますが、湯河原沖相模湾の海はキラキラと輝き疲れを癒してくれます。

さて今朝、JR湯河原駅を下りたらすぐに観光案内所に行きしとどの窟までの観光案内図をもらいました。その際に係の人から昨年の大雨で登山道の数か所が通行不能になっているので、幕山公園の方から登った方が良いと勧められました。しかしこの城願寺から城山経由でしとどの窟に行くコースは、土肥実平の妻がしとどの窟まで食料を運んだという故実を体感することが目的なので譲れません。最終的に自己責任ですからと言われ、このコースに来たのですが、結果的にはなんら問題はありませんでした。通行止めの場所のすぐ横からは山道の登山道があり、それを進めば途中で舗装道路に合流しました。

10時少し前に城願寺を出、11時30分には城山山頂に到着しました。1時間30分でほぼ500m登ったことになります。今年70歳になる老人の足にしてはまず上出来と思いました。写真は城山山頂の風景。南は相模湾で初島から伊豆大島、東は幕山から真鶴の町が見え、真鶴半島の三石も眺望できます。さらにその向こうには三浦半島、更に相模湾・東京湾の彼方には房総半島の工場地帯や山々が眺望できました。果たして頼朝が上陸した千葉県鋸南町の猟(竜)島はどこか探しましたが、多分正面の山の麓だろうと想像し、約60km先まで小舟で7人も乗って渡るのは至難であるなど思いを廻らしました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --湯河原編 ⑤城願寺の七騎堂--

2022-02-24 15:43:01 | 日記

城願寺の境内には、本堂のほか七騎堂という建物が建っています。この七騎堂に祀られているのは、安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、源頼朝、土屋宗達、土肥実平、田代信綱の七武将。この七人が治承四年(1180年)八月二十八日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びました。土肥実平の子である土肥彌太郎遠平は、『吾妻鏡』によれば、御使として御台所の御方に進ぜられ、別離以後の愁緒を申さると云々と書かれています。

また「七騎落」という謡曲があるようで、その説明書きもありました。

謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と思愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。 石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。 主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合の和田義盛に救われ、歓喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。 城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大けん禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木造が収められている。

この謡曲に八というのは忌んだ数字で船に乗るのは七騎とありますが、『真名本曽我物語』には源氏にとってハという数字は大変めでたい数字であることか縷々書かれている箇所があります。八幡大菩薩、八正道・・・等々。この謡曲の創作者は八騎でなく七騎にするために悩んだのでしょう。その謡曲が現代まで伝わっているのですから、作者の思いは通じたと思われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --湯河原編 ④城願寺 ビャクシンの木--

2022-02-24 14:46:48 | 日記

城願寺の山門をくぐり階段を上った先にビャクシンの大木があり目にとまりました。案内板を見ますと、このビャクシンの木は土肥実平のお手植えとされ、樹高 20m、胸高周囲 6m、国の天然記念物に指定され、樹齢800年以上(推定)と書かれていました。神奈川県内では最も樹齢が長く、神奈川の銘木100選にも選ばれています。

ビャクシンと言えば、鎌倉市内の禅宗の寺院には多く植えられ、特に建長寺の仏殿の前のビャクシンの木がよく知られています。蘭渓道隆が宋から持ってきたものと伝えられています。私はこのビャクシンがビャクシンのはじまりと思っていましたが、それ以上に古い木があるとは意外でした。土肥実平(生没年不詳)のお手植えなら、12世紀後半から13世紀初めであり、蘭渓道隆が来日した13世紀半ばより古いということになります。

何よりも火事にも遭わず、地震や津波・台風で倒れることなく、800年以上も生き永らえ、湯河原の町を見守ってきたと思うと、感慨深いものがあります。一見の価値はあります。是非訪れてみてください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --湯河原編 ③城願寺の土肥実平一族の墓所--

2022-02-24 10:15:15 | 日記

城願寺にある土肥実平一族の墓所は、麓の街越しに相模湾を望む陽の光が一杯のとても気持ちの良い場所にあります。私は鬱蒼とした木立のなかにあるお墓より明るい開放的な場所にあるお墓の方が好ましく思われます。

この墓所についての湯河原町教育委員会の説明です。

城願寺本堂左方の広さが10坪ほどの土肥氏一族の墓所には、六六基の墓石があり、嘉元二年(1304年)七月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375年)六月の銘のある宝篋印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型が揃っています。 このように一墓所に各種の墓型のそろっているのが見られるのは、関東地方ではめずらしく貴重なものです。

また墓の配置については、土肥会の案内には次のよう書かれています。

正面4基が五輪塔。その左右に一つずつの層塔、さらに四角い宝篋印塔が、左右に続きます。五輪塔は、どれも銘が無く、建立年や施主などは不明ですが、実平が中央、向かって左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔だと伝えられています。

写真を載せましたので、実平一族を偲んでいただければ幸いです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --湯河原編 ②萬年山 城願寺--

2022-02-24 08:56:40 | 日記

JR湯河原駅から少し歩くと土肥実平一族の菩提寺である城願寺に着きます。標高は40~50mくらいでしょうか?相模湾が見渡せる気持ちのよい場所に建っています。

地元の箱根ジオパーク推進協議会、湯河原町、湯河原町観光協会が建てた案内板から城願寺の由来などを説明します。

城願寺は鎌倉幕府創設の源頼朝を助けた土肥次郎実平等一族の菩提寺です。 背後の城山は35~30万年前に活動した箱根火山外輪山を構成する湯河原火山の噴出物で、その溶岩を採掘した文献に残る箱根火山最古の丁場がこの付近にありました。境内にある土肥一族墓所の墓石は、この外輪山溶岩のほか、中央火口丘溶岩も使われているようです。 800年以上前にこの地の豪族、土肥実平が荒れ果てていた密教の寺院を一族の持仏堂とし、萬年山城願寺として再建しました。その後、室町時代初期に臨済宗として再興、更に15世紀曹洞宗の寺院として重興開山となり、成願寺と改名し、現在にいたっています。

この城願寺を含むこの付近には土肥実平の館がありました。その背後の城山(標高563m)の山頂は土肥城址であり、山全体が巨大な山城(砦?)を形成していました。土肥城址が実平の時代のものかは勉強不足で分かりませんが、城山山頂から尾根筋を抜け、箱根へと抜ける道があったのは間違いないでしょう。今日の旅の目的地であるしとどの窟はこの城山の反対側の山麓にあり、湯河原火山の噴火時にできた岩窟であったと想像されます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする