ケンのブログ

日々の雑感や日記

夏祭りの季節

2019年07月15日 | 日記
僕がとっている読売新聞の英字紙の一面に
盆踊りの写真が載っていた。
見た瞬間に郡上躍りの写真とわかった。
なつかしいなと思う。
写真のしたの文章を読むと
郡上躍りは7月13日土曜日に始まったと出ていた。
土曜日は雨が降っていたので浴衣の上にかっぱを着て
踊るひとの写真が新聞には載っている。
そんなものこの時期にかっぱなんか着て踊っていたら
しばらくすると暑さで耐えられなくなるのではないかと
心配になってくる。
写真撮影の時だけかっぱを着ていたかもしれないと
想像してしまう。
京都の祇園祭に岐阜県の郡上躍り。
夏だなと思う。
昨日ちょっと携帯テレビで相撲放送をチェックしたら
レスリングの吉田沙保里さんがゲスト解説に出ておられた。
ちょっと解説を聞いていてすごいなと思った。
ある力士が落ちて負けたとき
沙保里さんは
「落ちるから前に出てはいけないということではなく
ここは落ちてもいいから前に出ないといけないんですよね」と言った。
やっぱりとっさの言葉の出方が沙保里さんはすごいなと思った。
日頃、相撲を解説している親方なら
「負けましたけれど、前に出ていますから
こういう相撲でいいんです」という言い方をする場面だと思った。
沙保里さんは相撲の専門用語を使わずに
とっさに自分が感じたことを
その場の感覚で言葉にするからわかりやすいし
説得力があると思った。
高安と玉鷲の相撲で
勝負が決まった瞬間
高安が肘をかばうそぶりをした。
たちどころに沙保里さんは
「痛そうですねえ。勝負しているときはアドレナリンが
出ているから痛みを感じませんが
勝負が終わると痛くなるんですよね。
腕を抜いたときに痛めたと思います」と言った。
それでスローを見ると
なるほど玉鷲が小手投げを打ったときに
高安の肘が決まってしまっていて
高安がたまらずその肘を抜いた場面があった。
小手に決まるという言葉を使っていないだけで
まったく沙保里さんの指摘の通りだった。

沙保里さんはレスリングの練習に取り組むときの
気持ちの持ち方としてこんなことをいっていた。
「自分だけが苦しいんじゃないと思うと
頑張らなきゃ、という気持ちになる」と。
それを聞いたとき僕は仏教の大切な考え方の
ひとつである一切皆苦という言葉を思い出した。
一切はすべてが苦しみである。
そう悟ったときに人は苦しみから遠ざかり離れる
という意味だ。
苦しいのが当たり前と思うと
苦しいのも耐えられるという考えにもつながるように思う。
「苦しいのは自分だけじゃない」
本当にスポーツ以外の場面にもあてはまる大切な
考え方だなとしみじみと思った。

※吉田沙保里さんの言葉は記憶で書いているので
正確さを欠きます。ご了承ください。