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ケンのブログ

日々の雑感や日記

言葉のおまじない

2019年12月23日 | 日記
朝、ラジオを聴いていたら浜村淳さんが、かんぽの不正契約の問題について経営陣の方は不正について詳細を把握していなかったと言っておられますが本当に把握しておられなかったのでしょうかというようなことを言っておられた。

本当に僕も果たして把握していなかったって本当なのだろうかと思ってしまう。それは現場で具体的に何が置きているのかは会社の上の方の人は知らないのが世の常であるように思うけれど、もし、それを逆手に取って把握していないと言っているのだとしたらなんだかイヤになってきてしまう。下の方で働いている人はきっとあほらしくなってくるようにも思う。上の人が不正を招くような厳しい営業目標数値を作ったとも言えるだろうから。

報告書もまだもらったばかりで斜め読みしただけなのでと言っておられる場面もこのかんぽの問題の会見の動画を見ると出てくるけれど、そういうタイミングで報告書を受け取ってまだ斜め読みしかしていないと予防線を張っている可能性もあるように思う。

だから、どうというわけではないけれど、最近のこの種の会見って、あらかじめ第三者委員会とか弁護士とかと協議してこういう方針で会見を乗り切ると決めた上で会見に臨んでそのとおり時間を消化しているだけと思えなくもない。

もちろん会見に臨まれる経営陣の方は居並ぶ報道陣と録音マイクの前で失言は許されないと、経験したことのないものにはわかわない緊張があるだろうけれど。

しかし、一方でそういう会社の経営陣になる方っていろんな会議の場とかでライバルからの追求とかそういうのを論破してきた経験いろいろお持ちだろうから、自分たちが描いたシナリオで突っ走るのはいわば得意のパターンであるようにも思える。

昔はよかったと思うようになると歳をとった証拠だけれど、こういう会見に限らず世の中マニュアル通りシナリオ通りということが多くなったように思う。

お店で買い物などをしたときも、カードはお持ちですか、お作りしましょうか、そんな言葉を忘れないで言うことが店員の方の義務になってしまって、お買い上げありがとうございます、毎度おおきにという言葉を聞くこともめったになくなってしまった。

大阪に出てきた頃、中華料理店の店員のお兄さんがよく通る声で おおきに と言ってくれていたけれど今はそんなふうに言ってくれるのは個人でやっておられるお店などごく一部になってしまったように感じる。そんな個人でやっておられうような店などめったにいけるものではないし、、、。

しかし、人間は言葉でものを考えるから おおきに ありがとう と言葉に出していないといつの間にかありがとうという気持ちを忘れてしまうものだと思う。

先日、入った衣料品店でちょっと寸法直しをしてもらった。僕が寸法直しお願いしますとお願いすると、白いマークの内側に立ってください、はいタグを貼りますからこちらを向いてください、次は横を向いてください、はいできました、これレジへ持っていって会計してください、会計はレジでお願いします、こちらは寸法をはかる場所ですから違います、と言われた。

今度はレジへ行くと はい、出来上がったらまた寸法直しの場所でお渡しします お受け取りは何日以内にお越しください、という感じで、もう流れ作業のコマのように指示をうけてばかり。お客の立場で行っているのにとつい文句のひとつも言いたくなってしまう。

まあ、そういう流れ作業の中でやっているからお値打ち価格になるのだろうけれど、いい歳して学生とそんなに変わらないような年齢とおぼしき店員の方にすごく冷たく扱われているような気がして、本当になさけなくなってしまいがっくりときてしまった。

そこには寸法はどのくらいにしたらいいだろうかと店員の方に聞いたりするゆとりはとてもないような感じだった。もう自分で寸法は考えて店員の方にはただマークをつけてもらうだけという感じだ。味気なく情けないなあと思い、なんだかがくっと来てしまった。

落ち込んだり、がくっと来たりすると僕は最近二つの言葉を心に思い浮かべることが多くなった。一切皆苦(一切は苦しみである)諸行無常(すべての事柄は移り変わる)の二つ。一切皆苦だからしんどいのが当たり前、がくっとくることがあるものあたりまえ。諸行無常だから、がくっとした気持ちもいつまでも続くわけではないと。そう思うとスッキリするというほど甘くはないけれど10しんどいのが8くらいになるような気はする。

第九deクリスマス

2019年12月22日 | 音楽
ザ シンフォニーホールに第九deクリスマスと銘打ったコンサートを聴きに行った。
演奏が始まる前、僕の前列79番の席に座ったおばちゃんが隣の80番の席に荷物をおいていた。

そこに別のおばちゃんがやってきて「ここ80番じゃないですか」と79番のおばちゃんに自分のチケットを提示しながら言った。79番のおばちゃんはチケットを取り出して見ようとしたけれど暗がりだしメガネもないし、なんだかよく見えないようだ。

そうこうしているうちに79番のおばちゃんの友達とおぼしきおばちゃんがやってきた。「ちょっと、あんた何番の席やった?」と79番のおばちゃんが友達に聞いた。「いや、見てへんわ。私、あなたがいる所、目標にして来たから。大体このへんや言うことはわかってたし」と言った。

「ちょっとチケット見て確認してよ」と79番のおばちゃんは言った。「確認するわ」と友達が言った。その友達はチケットを確認して「私78番やわ」と言った。「イヤやわ。私80番の方に荷物置いてたわ。逆やった」と79番のおばちゃんが言った。

それで、そのおばちゃんが79番、友達が78番、「ここ80番じゃないですか」と言ってきたおばちゃんはそのとおり間違いなく80番ということで一件落着となった。いやあ、よかった、よかった。79番のおばちゃんと80番のおばちゃんと喧嘩になるんじゃないかと心配したけれど無事でよかった。

78番のおばちゃんと79番のおばちゃんがチケットの確認に時間がかかっている間80番のおばちゃんは「何やの、ホンマに」というような顔をしておられたけれど問題が一件落着すると時々言葉を交わしておられた。本当によかった。

そして、
管弦楽テレマン室内オーケストラ
指揮 延原武春さんで演奏されたのは
ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調作品125 合唱つき

第一楽章
速いテンポで始まる。冒頭コンサートミストレスの奏でるいわゆる空虚5度の音階がなんだかバイオリンを習いたての子供が出す音のように聴こえる。これはコンミスが下手というわけでは決してなくピリオド奏法的な演奏ということで故意にそのように弾いておられる。

ちなみに楽器の並び方は指揮者の左手からファーストバイオリン ビオラ チェロ セカンドバイオリンの古典配置(対向配置)になっている。コントラバスは右奥に陣取っている。

チェロとコントラバスが普段目にするモダン楽器に比べると異様に小さく豆タンクのように見える。左手に陣取ったティンパニーも小さくて奏者は低い腰掛けに腰掛けて演奏する形になっている。編成も指揮者の左手にファーストバイオリンが3プルトとかなり小さい。

冒頭から始まってコンミスの方が身体を大きく動かしてかなり積極的にイニシアティブととっておられるのがわかる。ビオラのトップの男性奏者もかなり身体を大きく動かす弾き方で演奏の要所要所でコンミスに目配せしておられる。一見、弦楽器はこの二人がかなりリーダーシップを発揮して演奏しておられるのがわかる。

ただ、例えばファーストバイオリンの奏者全体を見ていると、コンミスの積極性に比べ他の奏者はおとなしめに弾いておられる感じで、ちょっとテンションがちぐはぐだなと思う側面もあった。延原さんも指揮棒をもたずに手からこまかいサインをオケに送っておられた。しかし、指揮者とともにコンミスがイニシアティブを取る様子も視覚的によくわかって勉強になった。


第二楽章
下降する八度の音階をコンミスを中心にファースバイオリンが奏でると次にこの8度の音階を元にしたメロディラインはセカンドバイオリンの方から出てくる。このことは楽器の並びが対向配置になっていてファーストバイオリンとセカンドバイオリンの音がセパレートに聴こえてくるからよくわかる。やはり生演奏を聴くといろんな発見があるものだなと思う。

中間部のトリオでホルンとオーボエが美しく絡みながらしっとりとした味わい深い旋律を奏でていた。これはいいぞ。今日の目玉になるかもと思って聴いていたらオーボエが旋律の最後の方でちょっと一瞬音がとぎれるような感じになってしまった。

いやあ残念と思った。そうこうするうちにベートーベンの音楽は同じことを何度も繰り返すならいで、またホルンとオーボエのからみが再現された。今度こそ音が切れないようにと願いながら聴いていた。

するとまた残念なことに途中で音がちょっと一瞬切れてしまった。プロの奏者はみんな第九を演奏しなれているのでこれはちょっと珍しいことかもしれないと思った。たぶん一度目で音が微妙に切れたので二回目は今度こそと慎重になりすぎたのかもしれないと思った。それか、ピリオド奏法ということで普段使いなれない楽器だったかもしれない。

しかし、この楽章はメロディラインでオーボエがかなり活躍する。そのさまを見ていてオーケストラの楽器配置でオーボエは木管ではほぼ定位置的に一番前に来るのがなんだかわかるような気がした。

こういう美しい管楽器の使い方を聴いていると本当にベートーヴェンというのはすごい人なんだなと改めて思う。

この楽章はティンパニも八度の動機を奏でるのに大活躍。ただ、途中で必要以上に力んでおられると感じたところがあった。ちょっと重く響きすぎかなと。ピリオド奏法的にやっておられるのだからもっとリズムを短く切って鋭くという感じの方がよかったかなと感じた。

第三楽章
やはりかなり速い。モダンな演奏を聴き慣れた耳にはちょっと別の音楽のようにも感じられる。途中で出てくるクラリネットの旋律は美しく奏でられていた。

ホルンがドレミファソラシドの音階を奏でるときに微妙に音が切れた。ちょっと残念と思った。生演奏で音がかすれたりするのはつきものだけれど、聴かせどころでそれが出るのは聴く立場としてはやはり残念と思う。

第四楽章
今日は第九のあとにクリスマスの音楽といういわばファミリーコンサート型のプログラム。そういうコンサートだと普段の定期演奏会にくらべて微妙に紙袋の音とか、ひそひそ話し声、くしゃみの音とか多いけれど、チェロがユニゾンで歓喜のテーマを奏でるところでは本当に会場が水を打ったように静かになった。

すべての人を引き込んでしまう普遍性を持った旋律。ベートーヴェンの音楽の大きさと深さをしみじみと感じる。何度聴いても第九で一番感動するのはチェロが歓喜のテーマを奏でるところだなと思う。

コンサートの後半はクリスマスにちなんでバッハのクリスマスオラトリオなどが演奏された。最後はもろびとこぞりて、紙の御子は今宵しも そしてアンコールにきよしこの夜が演奏された。きよしこの夜の最後で指揮の延原さんが会場のみんなにも歌うようにゼスチャーで合図すると後ろのおばちゃんが歌いながら泣いていた。いやあ音楽っていいなと思った冬至の日の午後だった。

※本文中78,79,80とした座席番号は架空のものです。

やまいとゆうてさらになし

2019年12月21日 | 日記
12月21日。日付を見て終い弘法の日だなと思う。毎月21日は弘法さんの縁日。12月21日が一年最後の21日だから終い弘法。昔、僕が使っていた手帳には12月21日は終い弘法と記されていた。今は小さい手帳なのでそれは記されてないけれど。

あと、今年残りの主だった縁日は12月28日終いの不動。あるサイトによるとこの日に門松を出すと良いとされている。そう思うと本当に今年も残り少なくなったなと思う。

金光さんは大安吉日と言ってその日を建前の日に選んでも雨が降ったらどこが大安なのかわからない。という趣旨のことを言っておられる。それはそのとおりで日付にこだわる必要はないけれど、僕はそれでもなぜかしめ飾りは28日に出すことが多い。

今日、ホームセンターに行ったら入り口のところで女性の店員の方が二人で松竹梅の門松を飾っておられた。といってもそれは商品見本という位置づけのものだけれど。しかし、鏡餅、しめかざりなど正月用のグッズを買っていく人の数も多くなったように思う。

何日か前にラジオのパーソナリティの方が梅宮辰夫さんのご病気のことを語っておられたのでちょっと興味を持てネットに出ていた梅宮さんの手記が載っているサイトを見た。そこにはこんなことが書かれていた。

‘’僕の場合はまず、「がんを踏み潰してやる」といった気負いはなるべく持たない。信頼のおける医者の説明に耳を傾けて覚悟を決めたら、すべてを委ねる。「石にしがみついてでもがんを成敗するぞ」なんて意気込むと、治療の途中で疲れてしまうからね。‘’

この梅宮さんの言葉を読んで、僕はそのとおりだなと思った。気負いすぎると疲れてしまう。

僕は人の体の状態というのは健康な状態と病気の状態とに二分されるというものではないと思う。体調には波がありその波がかなり落ち込んだ状況が便宜上、病気と呼ばれ、すべては体調の波という持続したした時の流れの中にある、と考えたほうが無理がないように思う。

体調の波が下がればそれを病気と考えてそこで養生する。そういうものであるように思う。

天理教の教祖、中山みきさんは、「なににてもやまいとゆうてさらになし 心ちがいのみちがあるから」という言葉を残しておられる。「病気というものはないで、それは心ちがいやで」という意味であろう。こういう言葉を見る時、おふでさきにやまいはないと書いてあるからないんや、とガチンコに考えると逆に無理があって疲れてしまうし、それはある意味現実離れしていると思う。

体調の波の中でそれが落ち込んだときが病気と呼ばれるのであってことさらに病気と力んで考えることはない。体調がまた上向きになるように養生努力すると考えたほうが無理がなく自然であるように思う。本当にそのように考えればやまいというものはないように思う。すべては連続した時の流れの中でのことなのだから。



12月20日

2019年12月20日 | 日記
朝のラジオで浜村淳さんが亡くなった梅宮辰夫さんのことを語っていた。そこでは梅宮さんは病気の治療にあたって民間療法、おまじない、祈祷というものにはたよらず、医学に頼って生き続けた。それは梅宮さんの父親が医師であったことも影響している。という趣旨のことが語られていた。

ちょっとそのことに関して調べてみると梅宮さんはやはりもっぱら医学を信頼してそれによって生きることができたという趣旨のことを梅宮さん本人が語っておられるサイトがあった。

つまり浜村さんが語った内容はそのまま梅宮さんの言葉の趣旨だった。ただ、ラジオで浜村さんが語るのを聞いていると梅宮さんは医学を信頼してこれに頼った。その点で梅宮さんは一本筋が通っていたというようなニュアンスに聴こえた。

たぶん、浜村さんの語りの抑揚の付け方とか、強調するポイントの置き方などによってそのようなニュアンスが醸し出されたのだと思う。

もちろん故人は一本筋の通った人だったというニュアンスの話は聞いていてこころがホッとする。特に話を美談にしようと浜村さんが力んでいる感じはないのに、そのように聴こえてしまうのが浜村さんの熟練の技なのだと思った。

真似してできるものではないけれど、物事のプラスの側面にスポットを当てる話し方と言うか考え方というのはなるべく見習いたいものだなと思う。

12月19日

2019年12月19日 | 日記
新聞の社会面に三菱電機の社員が自殺した件で兵庫県警がこの社員の上司を自殺教唆の容疑で書類送検したと出ている。

自殺した社員が現場に残したメモの写真が新聞に出ている。読むとワンセンテンスが長い文章なのに構文がしっかりしていてブレがない。このメモを見る限り自殺された方は賢い方と思われる。

そのメモには研修の内容を質問され質問に答えられなかった本人に上司が「次、同じ質問に答えられんかったら殺すからな」と言われたと書いてある。「自殺しろ」と言われたとも。本当にひどい話だなと思う。

僕の想像なのだけれど殺される恐怖から逃れるために死んでしまった可能性があるのではないか。質問に答えらなかったらと思うだけでもかなりストレスなのに、答えられなければ殺されるという大きな付帯条件までついたらそれはおかしくなってしまうと思う。

僕が勤めていた会社はかなり無秩序な会社だったけれど殺すぞという言葉を言われたことないしそういう発言があったということも聞いたことがない。

昔、村上春樹さんがあるエッセイに会社が有名で規模が大きくなるほどいささかやばい感じの人が増えてくるという趣旨のことを書いておられた。なんか僕もそんな気がする。

本当にこういうパワハラにあったらどこに相談するべきか、日頃から考えておくべきだと思う。

避難訓練と同じで、日頃から考えているからこそいざというときに動けるということがあると思う。