愛媛県で起こった僧侶が人を殺めてしまうというニュースを観て感じたことを一石。
彼が浄土真宗の一派の僧侶だと報じられている事が事実であるとしたら、彼は殺生している自分の心の動きをどうとらえていたのでしょうか。
親鸞聖人の心をもってしても彼にとって経とは「空」だったのでしょうか。仏教を学ぶことは、資格を得る為だけだったのでしょうか。親鸞聖人が法然上人を師事したように心から尊敬できる師を見つけることができなかったのでしょうか。読経とは「気づき」ではなく慣習でしかなかったのでしょうか。悪人と善人との違いはないと思っていたのでしょうか。また、長い年月をかけて根付いた仏教は、腐ってゆくのも然りだと思っていたのでしょうか。
それとも僧侶という固定観念が私達の目を曇らせているのでしょうか。
親鸞聖人は、
「凡夫というは無明煩悩、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、ひまなくして、臨終の一念に至るまで、止まる、消えず、絶えず」
と、おっしゃっています。つまり、人はどんなに行を重ねても悟りは開けないから、最後は阿弥陀如来に救っていただくしかないと説きます。
それが、「善人なほもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という思想に結びついてゆくのです。でも、それは親鸞聖人の師である法然上人からの教えでもあるのです。
苦しみの中からたどり着いた世の人々を救う親鸞聖人の心、阿弥陀如来の心というべき、僧侶を目指すなら普通の人がたどりつけぬ深く広い慈悲の心に触れる機会も幾度かあったでしょう。
しかしどれだけ言葉を羅列しようと彼の心はわかりません。ただ、彼が仏教を学んできた過程で触れてきた親鸞聖人「心」は彼に届いてなかったと言えるのかもしれません。
また、被害者やその親族の気持ちを考えると命を奪われたことへの憤りを感じずにはいられませんが、肉体から離れてしまった女性の魂が彷徨わずに往還回向するよう阿弥陀如来に助けていただく他力本願という思想は、残されたものへの心の支え、救い、ではないかとも思うのです。
合掌
彼が浄土真宗の一派の僧侶だと報じられている事が事実であるとしたら、彼は殺生している自分の心の動きをどうとらえていたのでしょうか。
親鸞聖人の心をもってしても彼にとって経とは「空」だったのでしょうか。仏教を学ぶことは、資格を得る為だけだったのでしょうか。親鸞聖人が法然上人を師事したように心から尊敬できる師を見つけることができなかったのでしょうか。読経とは「気づき」ではなく慣習でしかなかったのでしょうか。悪人と善人との違いはないと思っていたのでしょうか。また、長い年月をかけて根付いた仏教は、腐ってゆくのも然りだと思っていたのでしょうか。
それとも僧侶という固定観念が私達の目を曇らせているのでしょうか。
親鸞聖人は、
「凡夫というは無明煩悩、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、ひまなくして、臨終の一念に至るまで、止まる、消えず、絶えず」
と、おっしゃっています。つまり、人はどんなに行を重ねても悟りは開けないから、最後は阿弥陀如来に救っていただくしかないと説きます。
それが、「善人なほもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という思想に結びついてゆくのです。でも、それは親鸞聖人の師である法然上人からの教えでもあるのです。
苦しみの中からたどり着いた世の人々を救う親鸞聖人の心、阿弥陀如来の心というべき、僧侶を目指すなら普通の人がたどりつけぬ深く広い慈悲の心に触れる機会も幾度かあったでしょう。
しかしどれだけ言葉を羅列しようと彼の心はわかりません。ただ、彼が仏教を学んできた過程で触れてきた親鸞聖人「心」は彼に届いてなかったと言えるのかもしれません。
また、被害者やその親族の気持ちを考えると命を奪われたことへの憤りを感じずにはいられませんが、肉体から離れてしまった女性の魂が彷徨わずに往還回向するよう阿弥陀如来に助けていただく他力本願という思想は、残されたものへの心の支え、救い、ではないかとも思うのです。
合掌