今日一日だけ生きてみよう

卯月タラの日々のつぶやき

怒りという感情について

2008-08-02 19:45:00 | タラの日記

こんにちは、卯月です。
今日は新しいミイのバッグで、カウンセリングに出かけました。
バッグはうきうきでしたが、カウンセリングはうきうきとはいかなくて、私はたくさん泣いてしまいました。
昨日の夜、姉から電話がかかってきたのです。「Sちゃん(私の亡くなった夫)が、○○の××っていうCD持ってたと思うんだけど、できたらコピーして送ってほしいんだけど」と彼女は言いました。いつも頼みごとばかりしてごめんね、と終始すまなそうな様子でした。
私は、CDのありかもわかっていたので、「いいよ」と言って、娘にコピーしてもらいました。タイトルも書いてもらって、あとはもう送るだけ。
でも私はそのCDを見るのもいやな自分を感じてしまっていたのです。
それは、夫がとても気に入っていて、亡くなる前の日まで部屋で聴いていたものでした。

できれば私は夫のことを、思い出さずにいたかった。夫が好きだった○○さんの名前を聞くことすらつらい、そのことを意識するのも避けていました。
何重にも押し込められて封印されている夫の記憶。
それが昨夜の姉の電話で刺激され、でも一人でそれを思い出すのが多分つらくてできなかったのでしょう、今日カウンセリングに行くまで、もやもやした不安や哀しみが何のせいなのか意識できずにいました。
カウンセリングに行って先生に会って初めて、私はそれを意識に上らせることができました。それで涙があふれたのでした。

人の記憶って不思議です。
耐えられないぐらいつらいことは意識に上ってこないのですね。
先生は言いました。「お姉さんに対して、無神経な人だと怒りを感じたりしないの?」
そんなことはない、と私は言いました。「だって、いやなら断ってもいいんだし、無理強いされたわけじゃないんだから」と。
先生は、「あなたをこれほど苦しめたんだから、腹を立ててもいいんじゃないでしょうか」と言いました。

不思議ですが、私はふだん「怒り」という感情を持ちません。
先生はそれを不自然だと言います。怒りは人間の自然な感情で、抱いてもいいもののはずなのだと。
そう言われても、私は人から何かされて「なんだかいやだな」と感じても、相手に怒りを感じることができないのです。
我慢、というのとは違います。意識できないのです。
私が怒りを感じるのは、強い者が弱い者をあきらかに傷つけている、という場面でのみです。そういう場面ですら、「自分も無自覚に人を傷つけているのだろうから、私にこの人を責める資格はないのかもしれない、自分だって同じかもしれないのだ」と思うとひるんでしまいます。

そう、私には人に怒りを感じる資格がない。そう思ってしまうのです。
「怒りは感情です。資格もへったくれもない。湧いてくるものです」と先生は言いました。
私には、自然に湧いてくる怒りという感情を意識できません。
これが、小さい頃に虐待を受けてきたからなのかどうか、わかりませんが、私には感覚を自分で麻痺させる癖のようなものがあるとはうっすらと自覚しています。

前に先生に、「心を広く持とうとしすぎ」と言われたことがあります。
でも、心を無限大に広く持つのが私の夢だとしたら、その夢はゆがんでいるでしょうか。
すべてを受け止めたい、すべてを許したい。神様じゃないんだから、そんなことできないのはわかってる、でもできる限り私はそうありたい。
これが私の病気の所以でしょうか。
考えるほどにわからなくなります。

長くなっちゃいました。
帰ってきて、娘が買ってきてくれたハーゲンダッツのクッキーアンドクリームを食べました。ハーゲンダッツは高いから、3割引きとかの時じゃないと買えないよ。
大好きな天むすも食べたよ。

腰痛はまだ治らないけど、今日先生が強い鎮痛剤をくれたから、多分それで大丈夫になると思う。これから飲みます。

じゃあまた明日ね。
みなさん、おやすみなさい。