友人がお送ってくれた新聞のコピーに「優しいミクロ経済学」と云う記事があって、
その第1回が「制約下での選択」であった。筆者は東京大学教授柳川範之先生である。
これがほとんどの経済問題の本質だと書いてあった。
例えば企業の場合どこにどんな設備投資をするか。また賃金をどこまで増やすべきか。
これが企業経営にとって大切な問題であるが、
これらは、限られた収入をいかに有効活用するかという問題で、
つまりは制限下での選択の問題でもあるわけです。
考えてみれば1日24時間1年365日、この時間に何をするかも制限下での選択の問題でもあるわ けで 、その選択がその人の人生を決めているわけです。
これに気づいたとき僕は100万ボルトの電線に触れたほどの衝撃を覚えました。
つまり、病気を口実にグダグダ云って何もしなければ、
それを僕が選択したことになりそれが僕の人生だったということにすぎないと気付いたからです。
だからと云って、何をすべきかが見えてきたわけではない、
苦悩は続くがこれまでよりも少しは建設的に生きられるだろうと思われる。(T)
散歩道で。
企業経営の責任者は、どうして会社を経営して行くかと、日夜奮闘されているが、個人経営でも同じことが言えると思います、小生30歳頃から起床2時半、土 日 祭日関係なく頑張りました、昭和55年頃石油危機の折には売り上げがガタ減りで年2千万の売り上げが1千万になって、全くどうして云いか判らなかった、経営者ならば相談する人もいるが、個人経営者は相談する人がいない、でも2 3年辛抱して頑張ったお陰で売り上げが千5百万まで快復しました。努力が第一だが病気には勝てない。病気を口実にグダグダ云って何もしなければ、それを僕が選択したことになり、僕の人生だったと言うことに過ぎないと気付いたと云われますが、人生誰しも悔いのないように生を受けるから、成長し勉強し働き、続けた結果、現在の生活がある。誰しも選択した訳でもなく、ただ身体のなせるがままに現在に至っています。「何もしなければ」と言われるが、若い頃は10年一昔と言いましたが、80歳を過ぎると1年一昔、小生90歳になると、半年が一昔、身体が言うことを効かない、やろうとする気は充分あるが、やる気力が出て来ない、あれをしよう これをしようと云う気はあるけれども、する気力が出てこない、これでは駄目だと判ってはいるものの、考える頭はあるが、身体が動かない。動かす気持ちはあるが、もう少し休もうと云う思いがあって、中々先に進まない、これが90歳の人生かと思う。特に小生は狭い部屋の中でウロウロ動くのみで身体中疲れて暑くなる、何もしなくてもただ動くのみで身体が疲れる。病気を口実にすることなく、動けない事自体が身体が選択した僕の人生行路だと思う。