かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

息子夫婦と孫が見舞いに来てくれました。

2015-08-13 | 気ままなる日々の記録

 孫は上が小6男、下が小2女の子だ。兎に角可愛い。どれだけ見ていても飽きない。「孫と云う名の宝物」と云う言い方があるがこの表現でも言い足りないし距離感が違う、もっと近く感じているしモット尊く感じている。先回逢ったのは三か月前だがこの数か月で二人とも随分大きくなった。もう幼児と云う感じはない。二人とも立派な小学生だ。上は英検3級合格というから、話す、聴くでは、もうお爺ちゃんを超えている。「書く」も少し怪しい。

 兄は妹を僕の車いすに乗せて、押してやっている。妹も喜んでいたが「縁起でもない」と云って怒っているのは僕だけで、家内も息子夫婦も笑っている。

 息子は最先端のエンジニアで、娘が生まれたとき運悪く仕事で夜勤が入り、応援を求めて来たので家内と出かけた。夕食後上の子を連れて産院を訪ね、赤ん坊に逢い、母親から「おとなしくねんねするのよ」と云い聞かせて貰って息子のマンションに帰ったのに少し眠くなると「ママ、ママ、」と云って泣き出すので困った。

  当時、この子のお気に入りは玩具のパトカーで、いつも持っていて放さない。そこで「チョットパトロールしてこようか」と云ってパトカーを持たせこの子を僕が抱いてマンションの廊下を「う~、う~とサイレンのまねをして、「、悪い人はいませんか?御用のお方は窓から手を振って下さい。戸締りは大丈夫ですか?窓もキチンと鍵をかけてください。こちらは市川市警察本部パトカーです」と小声で云いながら歩くと,ご機嫌で玩具のパトカーを飛行機のように持ち上げてぐるぐる回している。

 そこでこちらが図に乗って「ママ,ママ。と云って泣いている子はいませんか?」と云うと怒って「いません!」と大声で云ったものだった。あの時の子がもう小学校の6年生で、あの時生まれた赤ん坊が小学校の2年生だと思うだけで感無量で、これだけで、立派な爺さんだ。

 今夜のテレビで明日はにわか雨に注意で、東京方面も大阪方面も渋滞が予想されると云っていたのでちょっと心配になった。息子たちは今夜は名古屋のホテルで泊まって明日レンタカーを返して新幹線で帰る云っていたので、大丈夫だとは思うがそれでも子供連れで4人動くということは大変だ。何かと心配になる。

しかし、思えば孫たちは今の僕より手がかからないのに。僕が偉そうに心配している。天の神様に笑われる。これが本当の「自分の頭の蠅を追え」だ。


僕にとって、元気だった頃の思い出は故郷と同じだ。

2015-08-12 | 気ままなる日々の記録

故郷は遠くにあって思うもの  そして悲しくうたうもの・・・・・室生犀星

確か、高校で習ってテストに出題されて多くの生徒が間違えるところだったことを思い出します。

つまりこの詩の作者は何処にいるか?ですが、正解は故郷金沢に来ている。東京にいて金沢のことを思い出していた時は暖かいいい街だったのに実際に帰ってみると、そんなことはなく、、皆、自分の生活に忙しく昔の頃のように係っては呉れない、といったところだろうか、だから、作者は何処にいるかと云う問いに対して故郷金沢にいる、が正解となる。帰ってみるとそれほどのことはない、と云う情緒的な陶酔から覚めようという詩である。だから僕の場合も犀星流に云えば、何時までも昔のことに拘っていないで、東京での幸せを見つけろ!と云う意味になります。ただし、東京は有料老人ホームですが。ああややこしいことになってしまいました。ご無礼いたしました。(T)

 

故郷は、遠きにりて思うものそして悲しく歌うもの、よしやうらぶれ異国の乞食になるとも帰るところにあるまじき、ひとり都の夕暮れに故郷思いて涙ぐむその心も遠き都に替えらばや

室尾犀星が故郷金沢から憧れの東京に出て、詩人として活躍することを夢見るが東京で故郷のことばかり思っていた。その心に惹かれて金沢へ帰るがそこには、嘗ての懐かしい世界はなく、皆生活に追われて忙しくしていた。上の詩は金沢で書いた。犀星の代表作のようなセンチメンタルな詩で思春期の若者に親しまれています。(T)


僕の場合ユーチューブはやはりクラッシクのピアノ曲である。

2015-08-10 | 気ままなる日々の記録

先に「湯の町エレジー」のことを書きましたが、じきに、飽きてしまいます。その点クラッシックのピアノ曲は何度聞いても飽きません。感動が深く、聴くたびに、心が震える個所が変わるような気がします。僕のパソコンのスピーカーを始めとする音響環境の相性がギターよりピアノに合うのかもしれません。

ここまで書いて高校時代のことで腰を抜かした覚えのあることを思い出しました。

 それを説明するためにチョット私が通った高校の集金システムを少し説明する必要があります。その高校は県立高校で前身は一応有名な高等女学校でした。授業料の他にPTA会費が必要で毎月集金袋が配られ生徒はそこへ指定されたお金を入れて事務の窓口へ提出していましたが、PTA会費のほかに学校徴収金といていたと思いますが、修学旅行費積立金とか、卒業アルバム購入積立金や同窓会入会金や遠足費などを合計してその経費を均等割りして、切りいい金額にして毎月徴収していました。

 そこで、もし修学旅行を不参加にするとその費用が払い戻されるシステムでした。卒業式の日に立派な会計報告が配布されました。残金は殆ど卒業記念品購入費に回され母校に高価な贈り物としてしまい、払い戻し金はなかった記憶です。

 さて、私が親しくしていた友人が突然修学旅行には行かないと云い出し友人たちは腰を抜かすほど驚きました、訊けばそのお金でカラヤン指揮のベルリンフィル演奏会にいくというのであった。当時僕のような田舎の子たちは交響曲と云うのは五月蠅いだけでどこがいいのか全然分からない人間でした。ところが、彼は逆に計画されていた修学旅行に対して「石段を登って金毘羅宮に参拝してどこがいいというのだ、また安芸の宮島などへ行って何になる、そんなところは何時でも行ける。しかし、カラヤン指揮のベルリンフィルは公演中にヨーロパに行かなければ聴けないのだぞ。それが名古屋に来るんだ、それを聴いて感動すれば一生涯の思い出になって人生の宝になると云ったのだった。そして、彼は修学旅行をキャンセルして、三万円強を手にして、君たちは枕投げでもしてこい、と僕たちを軽蔑した。

 そんなことがあって、僕はNHK交響楽団の演奏がラジオであると家族に静かにして貰って、我慢して聴くようにした。勿論途中で居眠りをして母によく笑われた。そして修学旅行中誰も枕投げはしなかった。現在、モーツアルトやショパンの名曲が頭に残っているのはその友人のおかげである。高校時代の友人の影響は大きい。その点僕は恵まれていたと思う。(T)


夏が来れば思い出す。

2015-08-10 | 気ままなる日々の記録

 日本の37候の中に、「涼風至る」という候があり、秋の涼しい風が吹き始める季節となっている。これは丁度新暦の8月7日から8月11日に当たる。

 夕方、5時頃蓮池にでた。期待しただけあって今までの熱風とは違い、涼風とまではいかないがそよ風程度には感じられる。日没後にいけばもっとましかもしれないが、ドアが6時前にロックされてしまい、我々は2度も閉めだされてしまった。歩ける人々にとっては道ならぬ抜け道があるが車椅子利用者はスタッフの手を借りないといけない。之以上失敗しては恥ずかしいので5時ごろ行くことにしている。

 そういえば、セミの鳴き声も以前とは変わり、見えぬ風にも微かな秋の気配を感じる。マダマダ日中は猛暑だが

 猛暑の夏には必ず思い出すことがある。もう10年もまえになるだろうか。その頃、一年に1回ぐらい避暑や避寒を兼ねて海外にセミロングステイをしていた。観光目的ではないので、1か月ぐらいコンドミニアムを借り、食事は朝夕は自分で作るという生活の仕方であった。当然、三日に一度くらいは食糧の調達に出なければならない。市内はどこへ行ってもバス代無料なのでとても便利だが、市内のスーパーは非常に混みレジに長蛇の列ができる。これが厭で我々は電車に乗り込み3つ目の駅で降り、先ず日本食まがいの小さなレストランで味噌汁と丼物のランチをとる。その後、駅のそばの大きなショッピングモールでのんびり買い物をし、のんびり帰宅するという日程にしていた。

以下は避寒に出かけていたオーストラリア西海岸のパースでのことである。この町は初めてイギリス人が多く住みついた街で至る所がイギリス風で洗練された美しさがあるまちであった。

 ある日、買い物に出た折り、いつもより暑いと感じた《日本の32度か33度の感じ》 勿論、パース市内の市民および旅行客は誰もパラソルを使わない。帽子なしの人々も大勢いて、いつものようにビジネスマンはランチに出かけ、いつものように町は観光客で賑わっていた。驚いたことに夕方のテレビでその日の気温は40度以上湿度10パーセントと報じていたのである。熱中症には罹らなかったが喉を傷めてしまった。市内の薬局でマスクを買い着用しようとあちこち探したがオーストラリア人は特別な職業な人を除いてマスクはつかわないらしい。3日間ほどで何とか乗り切ったが、今度来るときはマスク1箱分持参しようと思っていた。

 しかしどうやらこのプランは、実現できそうにない。。(E)

 


懐メロを聴く効用

2015-08-09 | 気ままなる日々の記録

今日は日曜日で何の予定もない。毎日ヒマなくせにやはりこんな日はうれしい。

 最近そんな時、インターネットでたとえば「湯の町エレジーをユー・チューブで聴く」と書き込んで検索すると、チャントたどり着けて、古賀雅夫さんのギターで近江敏郎さんのライブを視聴できる。全く便利な時代になったものだ。もっと驚かされることは懐かしのメロディーを聴いているとアッという間に、昔の自分に戻れるるところである。僕がこの曲に引き込まれていたのは高校時代である。

  家には縦長の木の箱に3個のつまみが出ているラジオがあって、夕食の頃そのラジオからこの曲が流れていた。母も歌謡曲が好きで、こうした曲が流れ出すと静かに!と云って子どもたちの口をつむらせいつの間にか体をゆらゆらさせて聞き惚れていたそんな世界へ79歳の自分が舞い戻りそこには、子どものままの兄や妹がいてその光景を映画を見るように見ている自分に気が付き時間が過ぎるのを忘れさせてくれます。

  続けて映画は高校時代の教室の風景に代わり顕微鏡映像を上手に黒板に書かれる先生に感動しながら必死にそれをノートしている自分が見えてきます。あの頃、誰が言い始めたかはっきりしないが、皆でお金を出し合い勇気のある友人が雑誌「夫婦生活」を買ってくる。射国謙とかいう韓国籍のドクターが人形を使っていわゆる体位と云う奴を解説していて、出資者は順番に1日だけ家へ持ち帰れる。親に見つかるといけないから知恵者が「解析Ⅲ」《解析Ⅱまでしかなかったのに)というカバーを上手につけていてくれている。そんなことまで「湯の町エレジー」は思い出させてくれる。本当に不思議だ。

  認知症が始まったかもしれないという不安はあるが、現実と思い出が混乱する症状はまだない。突然セーラー服の同級生と自転車を並べて帰宅したときの弾んだ気持ちを思い出し、そういえば、あの頃、登下校の自転車では「湯の町エレジー」を口ずさんでいたなあと思い出す。元気一杯、夢一杯だったあの高校生が今では半身不随で有料老人ホームの住人になっている現実に連れ戻される。これが無情というもので、むしろ、無常の見本かもしれないと思っています。(T)

 

 

 


読書感想文の最後に。

2015-08-09 | 気ままなる日々の記録

読書感想文のようなブロブは今日で最後にしようとパソコンを開きました。今日は日曜日で厭なリハビリもなし、回診もなし。やはり24時間フリーと云うのはうれしい。

阿部内閣が「集団的自衛権」とかいう聞き慣れないことを云い出し、新聞で批判的意見を見るようになってから自分なりに、①日本はなぜアメリカと戦争することになったのか、②誰がどういう作戦を考えていたか、③真面目に勝つと思っていたのか、などなど、を知りたくなった。

 あの戦争について日本としての総括と云うか公式の見解と云うものを学校でも教えられていないし共産党的な評価はよく聞かされたが政権側の総括は聞いていないので自分で調べるしかないと思い始めていた。

 そのころ「NHKスペシャル取材班編の「日本人はなぜ戦争へとむかったのか」[果てしなき戦線拡大編)と「日本海軍400時間の証言」の2冊が新潮文庫から出版され、更に半藤一利著「日本のいちばん長い日」および「12月8日と8月15日」[文春文庫)も出版されました。

 また同じ著者と出版社から「あの戦争と日本人」が出版されていました。これらの本を、アマゾンで次々と取り寄せ狭い老人ホームの部屋が本で溢れ家内に怒られるはめになってしまった。それでも、読書に夢中になれて1年が短く思えるようにはなっていました。ここで、その総まとめを書いて、「読書感想文型ブログ」を終わりにして次回からは正常の日記型ブロブに戻そうと思います。以下に参考文献をまとめて掲示します。

①「NHKスペシャル取材班編の「日本人はなぜ戦争へとむかったのか」(果てしなき戦線拡大編)新潮文庫

②「NHKスペシャル取材班編の「日本海軍400時間の証言」新潮文庫

③半藤一利著「日本のいちばん長い日」

④同じ著者の「12月8日と8月15日」(文春文庫)。

⑤また同じ著者と出版社から「あの戦争と日本人」

⑥「昭和陸海軍の失敗」[文春新書)『編者8名』

以下にそのまとめを強引に箇条書きにしてみます。

 A、 外交および外交戦略の失敗、第一次境大戦後ヨーロッパ先進諸国は同盟国の結束を固め、お互いに自分の植民地を護ろうという流れになっていたが、我が国はそれに気づかづ第一次世界大戦前の列強の真似をしていた。その点明治時代や徳川時代のように外交顧問を招き彼らの提言を大切にした時代の方が優れていた。

 B,「軍」という組織の造り方が稚拙であった。特に陸軍と海軍を統一的に指揮する組織を作ることに失敗していた。

 C,日本人はすぐに自分よりも国よりも、自分が所属する組織を優先させる組織の論理優先に流れる傾向が強い。つまり「個」がっ確立していない、つまり、陸軍は陸軍のことばかり考え海軍のことや日本のことを考えない、派閥争いに走るケ傾向がが強い。島国根性というのだろうか。大局的観点の持ち合わせがない。

 D, C,を克服するだけの力と説得力を持った民間リーダーが育っていなかった。C、は軍隊に限らず中央官庁の役人たちの間でもそれがあり、それを、よく統括できる政治家が育ちにくい。つまり、どこまでいっても、「個」が確立できていなく、すぐに、派閥を作って派閥の目的が自分たちの目的になり、一番大切な国家のことを考えない「烏合の衆」ができてしまう。

蛇足であるがNHK取材班によって発見された録音テープは貴重な資料である。これは、海軍士官学校の同窓会が後輩のために自分たちの失敗を残しておこうと自分たちが関与した作戦についての反省を語った400時間にも及ぶ録音である。これが本になったことは我が国にとって「国宝」級の重要資料である。

以上やや強引にAからDまでにまとめたが、我が国はあの大犠牲を払った割にはここから何も学んでいないし、何かが少しは改善したと思えるようなところがない。近くに北朝鮮や中国を抱え、前途多難が予想されます。若い人たちにできるだけ多くの資料を残し適格な判断をゆだねた方がよさそうだ。(T)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


桃の時期に思い出すこと。

2015-08-08 | 気ままなる日々の記録

  此処のところ、毎日毎食後、桃をデザートにしている。それには、チョットした訳がある。入居しているところの理事長さんが福島の復興支援に肩入れしておられ、先月はサクランボ、今月に入ってからは桃(あさつき)の注文受付放送が入るからである。サクランボは家で獲れるし、あまり好きでないので、無視してきたが桃は別である。とくにピンクの濃い桃に食指が動くのである。

  とうとう2箱、数にして34個を注文してしまった。プラムと異なり、ももは冷蔵庫の中でも追熟するらしく、今は2か所の冷蔵庫は桃がいっぱいで、それ以外の食べ物は入っていない。

  今年は梅雨時期に雨が多く甘味が少ないのではないかと、心配もしたが、梅雨開け以後高温の晴天続きで期待通り甘味ものっている。

  雨の多い年は気を付けないといけない。十数年前大失敗をしたことがあるからだ。大事な知人に名産地岡山からお中元に白桃を贈った。滅多に礼状が来ないが、このときばかりは丁寧な礼状が届いた。その次の年息子の家族と自家用に飛び切り上等で高価な白桃を注文した。届いた桃は期待外れで甘味が全然なくて不味かった。よく考えてみれば8月近くまで梅雨が明けない年だった。

  最近、「週刊文春」を読んでいたら、「夜更けの縄跳び(林真理子)の中に桃の話がでてきた。著者は山梨県出身で桃についてよく知っているrしい。山梨の桃は「可愛いい姉ちゃん」で岡山の桃は「貴婦人のお尻」と表現している。本当に妙を得たネーミングである。そしてきふじんのお尻をもう一度味わってみたい気さえもして来た。(E)

 


「筋金入りですねェ」といわれてしまいました。

2015-08-08 | 気ままなる日々の記録

今日お風呂でOさんの○○は「筋金入りですねえ」と云われてしまった。連日の猛暑で、TVの気象情報では「熱中症に注意」と呼びかけているのに下着に綿の長袖シャツを2枚も着ているからである。以前同じように呆れられた時には「梅雨明けまではね」と言い訳をして誤魔化したが、それももう使えない。

 僕は連日、暇さえあれば新聞を読むコーナーへ出かけている。ここには読売、朝日、毎日、日経と中日が置いてあり、時には前日の夕刊まである。これを片っ端から読んで悦に入っている。最初に読むのは「天声人語」や「余禄」「中日春秋」のようなコラムで次に社説を読んで文句を言い、次に見出しだけを読み飛ばします。このコーナーの上に大きなエアコンが設置されていてこの時期、毎日冷風が吹き出していて結構寒い。だから下着を丸首半袖に替えるのをためらっている。それを「筋金入り」といわれてしまった。本当の理由は多分半身不随で体を動かさないからだろうと思われるが、それは口にしなかった。

  自慢ではないが高校生の頃から僕の厚着は有名であった。連日5キロほどの道のりを自転車で通っていたが、雪の朝など両足が切られるほど痛くて寒かった。バリバリ雪を踏みつけて進むのだが、朝日が当たって雪の表面が解け始めると後輪に雪が付き始めやがて、泥除けとタイヤの間にt雪が詰まって進まなくなる。こんなときは、小枝を折ってきて泥除けの間を突いて雪を落としてから、自転車を漕ぐしかないのだがその作業中に足が冷えて痛くなる。だから、雪の日は靴下を2枚はいて通学していた。ただ自慢はいわゆる「しもやけ」はできない体質でそれは随分助かった。

  高校時代友達との間でそのことが話題になって、皮下脂肪の厚さの違いが、カギを握っているのではないか、ということになり、友人と比べたことがあった、皮膚を摘み上げてその厚さを比較するのだ。僕の場合確かに皮下脂肪は薄かった。友人の中には女性のように摘み上げることさえできない皮下脂肪を誇っている人もいた、しかし彼は毎年霜焼けが酷く、春になっても包帯を巻いてガーゼ交換などをして苦労していた。

思うに皮下脂肪が暑い人は寒さを感じにくいので、皮下組織が死んでしまうほど冷えても気づかず、僕の場合は靴下を2枚にしないと痛いので、結果皮下組織を護っていたことではないだろうか。(T)


8月6日《広島への原爆投下の日)のマスコミにいら立つ。

2015-08-07 | 気ままなる日々の記録

原爆投下の日のどんな番組を創り放映するかについて、討論を重ね、キチンとした意図をもって作成された番組があまりにも少ないことに溜め息がでる。難しい問題であることは百も承知であるがおざなりはやめてもらいたい。人道に反する行為としてアメリカを告発する意図があるのか、それとも真珠湾攻撃を始めた日本の間違いに対するやむを得ない報復か、とすれば、どうして日本はあんな戦争を始めたのかと云う掘り下げ。そのどれにも触れずに酷かった酷かったという惨状のみを強調していたように思います。せめて、原子爆弾の原理を紹介して何度の熱球が造りだされたかに触れてくれてもよかったのに。それもなく、おざなりで、熱意のない番組ばかりであった。テレビ界の劣化が著しいと思われました。(T)

 


NHKのクローズアップ現代を見ていて暗い気持ちになりました。

2015-08-06 | 気ままなる日々の記録

テーマは「長崎の被爆体験を語る」という運動の限界について、でした。

 横浜の中学生が修学旅行で資料館を訪れ学校の依頼である被爆体験者が原爆の悲惨さを体験に基づいて話しているとき,

一部の生徒がお喋りばかりして聴いてくれないので「静かにしてよ」と注意したらその中学生が「何だ!死にぞこないが!」語り部に文句を言ったという事件を紹介て、語り部運動の抱える問題点ばかりを論じていたが、中学生にもなってそんな人権を無視した暴言が許されている状況を問題にしないというセンスにうんざりしました。これを見ていて「いじめ」が絶えない中学の現状が見えてきました、と同時に教育問題を扱う時の我が国のマスコミの視点の狂いも見えてきました。

 例えば引率の先生がその場で本気になってその生徒を叱り学校を代表して語り部に謝罪するとかすべきでないか、それが教育の場というものではないか、と云う問題の立て方ができないのかと思えます、児童中心主義が、教育放棄を生んでいるのではないか、こんな大人を社会へ送り出されては日本の社会は乱れてしまいます。文科省を始め教育評論家は極端な偏向に陥ってる、と思います。老人に向かって「死にぞこない!」と云う暴言を吐く中学生に育ったことを問題にせずどんな教育があるというのだろうか。

 

 


学生時代の友人から40年ぶりに電話を貰いました。

2015-08-05 | 気ままなる日々の記録

彼は夜間定時制高校の出身で更に授業料の安い国立大学への進学を希望して一度失敗、一浪して入ってきたので学生時代は同学年でも年は僕より2歳年上で、同じサークルにて僕もよく知っている女性と結婚し、今は東京の国立市に家を建てて住んでいます。非常にまじめで勉強好きで20代後半に名古屋大学の院に社会人入学をして哲学を勉強して院を終了したと聞いています。以下Kが友人Oが私。

K「もしもし、Oか? お久しぶり。Kです。今日は朝からボチボチ旧友に暑中見舞いを書こうということで書いてきて、君宛を書き始めたが、それより電話するか、と思い立ち君の携帯番号を探して電話したところだよ。老人ホームへ入ったとか聞いたぞ。元気か?」

O「おおそうか、まあ俺たちの年になれば元気か死んだかどちらかだよ。ただし、元気と云っても何処か悪いに決まっているがね」

 K「おお!相変わらずで元気だね。僕の方は週二日デーサービスに通っているよ」

そういえば、数年前Kは階段で足を滑らせて転げ落ち、股関節にギブスを嵌められて骨が固まってからギブスを外しその後リハビリをしていると聞いていた。多分デーサーヴィスは歩行訓練とお風呂だろう。しかし、そんな話はしたくもなかった。

O「哲学の研究は進んでいるかい?老後をどう生きるか、分かったことがあったら教えてくれ、なるべく、一言でね」

K「藪から棒になんだって?そんなことはむずかしいよ。それより君の考えを聴きたいよ」

O「哲学とはどんな行いが正しい行いかを考える学問だと云っていたんじゃなかったか?。人を殺さないということは常に正しいとは言えない。戦争では沢山敵を殺した兵士が英雄となる。その辺をカントは考え込んでいた、と云う説明を聞いた記憶があるぞ!」

K「まあ、云えることは運命に身を任せてあまり欲張りにならないということかなあ」

O「おお、親鸞聖人だね」

K「家内が来たから替わるよ」

とまあ意地悪をしすぎて電話を替わられてしまった。

 ところで、種明かしをすると。「この年になると、元気か死んでるかのどちらかだ。と云う言い方はある本に出てきた名文句でそれをKに使っただけで僕は大満足している。その本は次の通りです。

『ユーモアんのレッスン』外山滋比古著中公新書

この本に出ている他のダジャレを紹介しますと

「①老婆は一日にしてならず」もちろん「ローマは一日にしてならず」の変化球。これはしかし、介護をしていて一番困る云う徘徊や暴力を振う老婆に対してこの言葉を思い出し彼女の生い立ちに目を向けると彼女と共感しあえる話題が見つかるといいます。

 ②イギリスの大経済学者に記者団が訊ねました。「一向に景気はよくなりませんが長期的に見て我々はどうなりますか?」ケインズ「長期的に見れば我々は全員が死んでいますね」記者団もジョーク好きなイギリス人。どっと笑って記者会見を終わったのにドイツから来ていた記者が文句を言ったら逆に其のドイツ人記者がイギリス人に笑われたとか。

 

 


ポツダム「宣言受諾」を決めた皇居内の会議室の保全を!

2015-08-01 | 気ままなる日々の記録

今日(8月1日)の朝日新聞で見出しの会議をした会議室の現状写真を見て驚きました。宮内庁も文部科学省も修復の計画はないとのこと。このセンスにあきれ、強烈な嫌悪感を抱きました。

 日本人は歴史を直視しそこから何かを学ぶという姿勢が全くなく、なかったことにしようとしているように思えます。国立競技場に桁外れな予算を勝手につけた文部科学省です。いったい何を考えているのでしょう知性のない享楽主義でしょうか?

 ポツダム宣言受諾の言う意見を述べた外務大臣に「陸軍大臣が「そういう発言は小官を切ってからしてもらいたいと怒鳴ったという会議室である。こんなお粗末な大臣が会議をしていてもいい結論が出るはずもないものと思われます。つい70年前我が国はそんな国になっていたということを忘れないために貴重な文化財として保存すべきだと思います。我が国の政府高官と呼ばれる人の価値観が疑われます。

陸軍大臣に対して「阿南もういい」と云って発言を止められポツダム宣言受諾を決められたのは昭和天皇でした。その会議室を是非保存してほしいと思います