最近、うれしいことにドストエフスキーの『罪と罰』の新訳が出ました。光文社古典新訳文庫で、全3巻のうちまだ第1巻ですが、年内に残りが出れば、年末年始に一気に読めそうです。
訳者は亀山郁夫さん(ロシア文学者)。同じ亀山氏のドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は、昨年出版されて以来、全5巻で100万部も売れているそうです。もともとドストエフスキーの小説は、少なからぬ愛読家には読み継がれてきていますが、一気に起きたこのブームは、やはり新訳のおかげかもしれません。
私は、外国文学を読むときは訳者にこだわるほうです。学生時代にドストエフスキーの五大作(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)はすべて読んでいましたが、その時の訳は米川正夫氏の個人全訳全集でした。米川氏の訳は今でも文庫で出ていると思います。ロシアの、あの時代の暗い雰囲気、大地の冷たさ、ドストエフスキー独特の作風からして、米川氏の多少古臭い大仰な表現がぴったりに当時は思えました。
「なあ~にを言ってるんだい、君は。いいかい、もしこの世に神がいなければ・・・」
彼は、いひひひひ、と気味悪く笑った。
「いいか、よく聞くんだよ。美、美とは恐ろしくおっかないもんだよ、なぜって、美というやつは・・・」
こんな感じの表現に感化されて、自分でもついつい知らずに書いていたものです。ですから、いつか作品を読み返す時は、絶対米川氏の訳で読むつもりでいました。ところが、昨年、書店の棚に積まれた亀山氏の『カラマーゾフの兄弟』新訳を手にしたとたん、読み返したい気持ちが急に湧いてきて、今頃の時分、一気に全5巻を読んでしまいました。
『カラマーゾフ』は面白い。こんな面白かったかと呆れて思いました。初めて読んだ時は、高邁な哲学や難解そうな宗教観、無神論思想などそれなりに興味を抱きましたが、小説としては少し退屈するところもあったように記憶しています。しかし、少しは人生経験を積んだおかげか、今回はそれなりに理解でき、ドストエフスキーの世界にどっぷり浸ることができました。
新たに分かったこと。それは『カラマーゾフ』は通俗性の強い小説であるということ。思想や革命、信仰、愛などについての文学・芸術性は別として、全体の物語を強烈に引っ張っていくのは、この通俗性であるということです。人間そのものが通俗である―、男と女の情欲の関係、金、欲望、憎しみ、情愛、カーニバル(どんちゃん騒ぎ)など、通俗の要素が物語をぐいぐいと引っ張っていく力となっています。また、親殺しの犯人探し、裁判での論争対決、男と女の愛憎を絡めたミステリー仕立ては、まるで現在のミステリー小説やドラマを見ているようです。いや、それよりもずっと上質であるといえます。
ところで、この小説には3,000ルーブルという大金を貸したり借りたり、隠したり持ち逃げしたり、ということが描かれており、この大金が一つのキーワードになったりしています。小説の中の感覚からして、今の日本円で500万円くらいという感じでしょうか。この金額を、主人公の一人(ドミートリー)はしばしば、寝ずにぶっ続けで飲み食いし、男女かき集めて大騒ぎし、いっぺんに使い果たしてしまいます。だから、いつもお金がない。それで、憎んでいる父親のところにせびりに行くわけです。それにしても、500万円のお金を手にしたとたん、寝ずに飲み食い騒いで散財するというのは尋常ではありません。ライフプラン的には、一生に10回ぐらいは破産しているでしょう。しかし、文学的にはこういう尋常ならざる人物が物語を作っていきます。
言葉や文章は時代とともに変遷します。翻訳の文章も変わっていきます。昔の時代を映す昔の文章もそれなりに味わいがあり、ノスタルジーを感じさせますが、新しい解釈(上記文庫の第5巻に亀山氏の詳しい論説が載っています。これがまた新解釈で非常に興味深い)による新しい文章、現在の感覚で読める翻訳文もそれなりにいいものです。これでドストエフスキーが「甦る」と言われています。ですが、すでにドストエフスキーは少なからぬ愛読者には読まれてきていますから、「甦る」というよりは、新しい言葉で「読み替える」ことで新たな魅力を発見できるのではないかと思います。
『罪と罰』が楽しみになりました。
訳者は亀山郁夫さん(ロシア文学者)。同じ亀山氏のドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』は、昨年出版されて以来、全5巻で100万部も売れているそうです。もともとドストエフスキーの小説は、少なからぬ愛読家には読み継がれてきていますが、一気に起きたこのブームは、やはり新訳のおかげかもしれません。
私は、外国文学を読むときは訳者にこだわるほうです。学生時代にドストエフスキーの五大作(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)はすべて読んでいましたが、その時の訳は米川正夫氏の個人全訳全集でした。米川氏の訳は今でも文庫で出ていると思います。ロシアの、あの時代の暗い雰囲気、大地の冷たさ、ドストエフスキー独特の作風からして、米川氏の多少古臭い大仰な表現がぴったりに当時は思えました。
「なあ~にを言ってるんだい、君は。いいかい、もしこの世に神がいなければ・・・」
彼は、いひひひひ、と気味悪く笑った。
「いいか、よく聞くんだよ。美、美とは恐ろしくおっかないもんだよ、なぜって、美というやつは・・・」
こんな感じの表現に感化されて、自分でもついつい知らずに書いていたものです。ですから、いつか作品を読み返す時は、絶対米川氏の訳で読むつもりでいました。ところが、昨年、書店の棚に積まれた亀山氏の『カラマーゾフの兄弟』新訳を手にしたとたん、読み返したい気持ちが急に湧いてきて、今頃の時分、一気に全5巻を読んでしまいました。
『カラマーゾフ』は面白い。こんな面白かったかと呆れて思いました。初めて読んだ時は、高邁な哲学や難解そうな宗教観、無神論思想などそれなりに興味を抱きましたが、小説としては少し退屈するところもあったように記憶しています。しかし、少しは人生経験を積んだおかげか、今回はそれなりに理解でき、ドストエフスキーの世界にどっぷり浸ることができました。
新たに分かったこと。それは『カラマーゾフ』は通俗性の強い小説であるということ。思想や革命、信仰、愛などについての文学・芸術性は別として、全体の物語を強烈に引っ張っていくのは、この通俗性であるということです。人間そのものが通俗である―、男と女の情欲の関係、金、欲望、憎しみ、情愛、カーニバル(どんちゃん騒ぎ)など、通俗の要素が物語をぐいぐいと引っ張っていく力となっています。また、親殺しの犯人探し、裁判での論争対決、男と女の愛憎を絡めたミステリー仕立ては、まるで現在のミステリー小説やドラマを見ているようです。いや、それよりもずっと上質であるといえます。
ところで、この小説には3,000ルーブルという大金を貸したり借りたり、隠したり持ち逃げしたり、ということが描かれており、この大金が一つのキーワードになったりしています。小説の中の感覚からして、今の日本円で500万円くらいという感じでしょうか。この金額を、主人公の一人(ドミートリー)はしばしば、寝ずにぶっ続けで飲み食いし、男女かき集めて大騒ぎし、いっぺんに使い果たしてしまいます。だから、いつもお金がない。それで、憎んでいる父親のところにせびりに行くわけです。それにしても、500万円のお金を手にしたとたん、寝ずに飲み食い騒いで散財するというのは尋常ではありません。ライフプラン的には、一生に10回ぐらいは破産しているでしょう。しかし、文学的にはこういう尋常ならざる人物が物語を作っていきます。
言葉や文章は時代とともに変遷します。翻訳の文章も変わっていきます。昔の時代を映す昔の文章もそれなりに味わいがあり、ノスタルジーを感じさせますが、新しい解釈(上記文庫の第5巻に亀山氏の詳しい論説が載っています。これがまた新解釈で非常に興味深い)による新しい文章、現在の感覚で読める翻訳文もそれなりにいいものです。これでドストエフスキーが「甦る」と言われています。ですが、すでにドストエフスキーは少なからぬ愛読者には読まれてきていますから、「甦る」というよりは、新しい言葉で「読み替える」ことで新たな魅力を発見できるのではないかと思います。
『罪と罰』が楽しみになりました。