『旭日鳳凰図(きょくじつほうおうず』
先日行った「皇室の名宝」展(「伊藤若冲 ― 極楽を描いたエロティシズムの絵師」)の続きです。
現在も東京国立博物館で第2期が開催されています。じつは、「第1期」をもう1回見に行ったのです。第1期終了1日前ということで、大変な混みようでした。伊藤若冲の『動植綵絵(どうしょくさいえ)』を展示しているホールでは、作品前は数列も重なって、満員電車のように身動きできず、ちっとも前へ移動できないほどでした。係の女性が、しきりに「最前列の人は前へ進んでください」と言ったって、先のほうでじっと動かないので、進みようがないのです。
最初から、度肝を抜かれたからでしょう。いわゆる若冲ホールに入ったとたん、『動植綵絵』(タタミ1畳分くらいの大きさの絵が30幅)より大き目の絵がいきなり飛び込んできたからです。そこからして、もう、人垣が動きません。前に、「白いエロティックな鳳凰」(『老松白鳳図(ろうしょうはくおうず』)について書きましたが、それよりちょっと前に描かれた、すごい絵があるのでした。
『旭日鳳凰図(きょくじつほうおうず』。
旭日(あさひ)を背景に、2羽の鳳凰が描かれています。中央の美しい鳳凰が雄なのでしょう。『老松白鳳図』の「白い鳳凰」と構図がそっくりです。ただ、どちらかというと、まだエロティシズムが足りません。「白い鳳凰」が雌の、女を意識したエロティックな美に対して、これは雄の美しさです。孔雀の、あの雄の美しさと同じです。華やかであること、優美であること、そこにとどまる美。その隣にいる、雄のほうを見ている雌は、メスのふくよかさと、母となる落ち着きがあります。その地味さが飛んでしまうほど、雌としての存在感があります。
はてさて、これはまた、なんという絵なんでしょう。お正月に、鏡餅の後ろに、ちょいとめでたく飾って掛けるという代物ではありません(贋物っぽいものが、小さい頃、正月の露店で売ってたりしていましたが)。
この細密緻密は、絵であって絵ではない。若冲には、この世ではない架空の鳥が、眼の前に写真のように映っていたのでしょう。若冲は、その眼の前にある「現存」を、最高の画材で写し取ったのです。現代に生きていれば、カメラでそのまま写真に残すようなものです。仏様は、カメラの精巧さの代わりに、画材を自在に扱う緻密繊細な指先と、実在を写し取る眼を若冲に与えたのでしょう。
芸術性としては、「白い鳳凰」のほうが高い(と思う)。しかし、前身ともなるこの絵は、これはこれで、1枚のみで伊藤若冲の名を永く残すものです。「こんな絵見たことない」―、というのが最初の印象ではないでしょうか。この絵が最初に展示してあることからして、若冲ホールの満員渋滞の原因なのでした。
それにしても、こういう満員の日に、車椅子の方が何人かいました。満員状態の人垣の後ろのほうから、しかも普通の人より低い目線で、遠くから困ったように観ていました。国を代表する博物館。車椅子からでも世界に知れる若冲の絵を、いや、これからも展示される名品を、自分の生の眼で観たいでしょう。もう少し、障害者の方も落ち着いてゆっくり見られる設備を、と望みます。
今度は、いつ東京に来るのでしょうね。「白い鳳凰」と「あさひの鳳凰」、2枚のポストカードを見比べながら、飽きない秋でした。
先日行った「皇室の名宝」展(「伊藤若冲 ― 極楽を描いたエロティシズムの絵師」)の続きです。
現在も東京国立博物館で第2期が開催されています。じつは、「第1期」をもう1回見に行ったのです。第1期終了1日前ということで、大変な混みようでした。伊藤若冲の『動植綵絵(どうしょくさいえ)』を展示しているホールでは、作品前は数列も重なって、満員電車のように身動きできず、ちっとも前へ移動できないほどでした。係の女性が、しきりに「最前列の人は前へ進んでください」と言ったって、先のほうでじっと動かないので、進みようがないのです。
最初から、度肝を抜かれたからでしょう。いわゆる若冲ホールに入ったとたん、『動植綵絵』(タタミ1畳分くらいの大きさの絵が30幅)より大き目の絵がいきなり飛び込んできたからです。そこからして、もう、人垣が動きません。前に、「白いエロティックな鳳凰」(『老松白鳳図(ろうしょうはくおうず』)について書きましたが、それよりちょっと前に描かれた、すごい絵があるのでした。
『旭日鳳凰図(きょくじつほうおうず』。
旭日(あさひ)を背景に、2羽の鳳凰が描かれています。中央の美しい鳳凰が雄なのでしょう。『老松白鳳図』の「白い鳳凰」と構図がそっくりです。ただ、どちらかというと、まだエロティシズムが足りません。「白い鳳凰」が雌の、女を意識したエロティックな美に対して、これは雄の美しさです。孔雀の、あの雄の美しさと同じです。華やかであること、優美であること、そこにとどまる美。その隣にいる、雄のほうを見ている雌は、メスのふくよかさと、母となる落ち着きがあります。その地味さが飛んでしまうほど、雌としての存在感があります。
はてさて、これはまた、なんという絵なんでしょう。お正月に、鏡餅の後ろに、ちょいとめでたく飾って掛けるという代物ではありません(贋物っぽいものが、小さい頃、正月の露店で売ってたりしていましたが)。
この細密緻密は、絵であって絵ではない。若冲には、この世ではない架空の鳥が、眼の前に写真のように映っていたのでしょう。若冲は、その眼の前にある「現存」を、最高の画材で写し取ったのです。現代に生きていれば、カメラでそのまま写真に残すようなものです。仏様は、カメラの精巧さの代わりに、画材を自在に扱う緻密繊細な指先と、実在を写し取る眼を若冲に与えたのでしょう。
芸術性としては、「白い鳳凰」のほうが高い(と思う)。しかし、前身ともなるこの絵は、これはこれで、1枚のみで伊藤若冲の名を永く残すものです。「こんな絵見たことない」―、というのが最初の印象ではないでしょうか。この絵が最初に展示してあることからして、若冲ホールの満員渋滞の原因なのでした。
それにしても、こういう満員の日に、車椅子の方が何人かいました。満員状態の人垣の後ろのほうから、しかも普通の人より低い目線で、遠くから困ったように観ていました。国を代表する博物館。車椅子からでも世界に知れる若冲の絵を、いや、これからも展示される名品を、自分の生の眼で観たいでしょう。もう少し、障害者の方も落ち着いてゆっくり見られる設備を、と望みます。
今度は、いつ東京に来るのでしょうね。「白い鳳凰」と「あさひの鳳凰」、2枚のポストカードを見比べながら、飽きない秋でした。