(井の頭公園 4月2日)
毎年、花見に行きます。正確には、「花見」を見に行きます。桜の花を見に行くのですが、同時に花見に来ている人々を見るのが好きです。そこに来ている人たちを見ていると、毎年、自分は何かを始めなければならないと思います。桜の花が、自分を見ている気がするのです。わずか1週間ほどの期間、人は花を見てうかれます。桜は、自分は見られながら、人々が生きるのを見ています。
古来、桜は人々に見られ続けてきました。天皇から貴族、商人も庶民も。見られ続けるのが使命であるかのように。そして、そのつとめが終わる頃、雪のように花を散らします。潔く、切なく。
桜はまだ満開でした。今年も吉祥寺の井の頭公園に花と「花見」を見に行き、散策してきました。カメラマンがカメラを向けるように、画家が絵筆でスケッチするように、私もその場で1節、ペンでスケッチしてきました。
―― 「池の岸側から横に斜めにうねり絡まリ合うように、枝々が、時にはまっすぐに、陽の陰を受けて暗く伸びている。空は曇りをともないつつも、半ば明るく射し、時々雲の間から、突如として強い光を持ってくる。
ひとかたまりずつのわずかな掌にくるまれた綿のように、白い、薄桃を帯びた花びらが、かたまりとなって枝にしがみついていて、樹と樹が大きな公園の真ん中の池に、ほうぼうから重なり合ってかかってくる。
人々は、午後の少し肌寒い中を、若者たちや子ども、大人たちが飲み、食べ、喋り、そして喚声を上げる。これも人の心を誘うこの時季の、さくら、桜、桜のいのちである。
池の周りのはたを歩き、途切れない人の列が続く。なぜこうも、人のこころを呼び寄せるのか。
この花の時季。」
人の生の呼吸(いき)に揺すられ、また何かを始めようと思う。