世界一の美女とは誰か?
― 小説の中では、「彼女は世界一の美女である」と書けば、それが世界一の美女なのである。
と、三島由紀夫は『文章読本』で書いている。
小学校1,2年の頃、「世界一の美女」といえば、エリザベス・テーラーと聞かされたことがある。その時は、イギリス王国のエリザベス女王と区別がつかなかった。
女優エリザベス・テーラーが先月(3月23日)亡くなった。79歳。晩年の彼女には世間もそうだが、私自身もそれほど関心がなかった。考えてみると、彼女の映画も観たことがない。「世界一の美女」ということで、ネットで若い頃の写真をいくつか見ると、やはりそれは、すごい美貌である。数いる海外の美人女優の中でも、とび抜けている。
どんなに美女と言われている人でも、たいてい、その容貌にあいにくのささやかな‘瑕疵(きず)’というものがある。といっても、凡庸な顔の女優に比べれば、欠点というほどの欠点ではなく、その美女らしい愛嬌や可愛らしさ、あるいは親しみやすさというものでしかない。
たとえば、少し目が釣り上がってきつめとか、逆に目じりがちょっとだけタレ気味とか、唇が厚め、鼻がやや上向き・・・、など。しかし、そういうのが強い個性であり、魅力となっている。
― 彼女は世界でいちばんの美女である。
と、小説で書かれても、イメージがわかないし、どうも親近感が出てこない。いっそ、
― 彼女は、一目でハッとさせるほどの美しさをもっていた。しかし、澄んだ大きな瞳のわりに両目じりがやや上向きのため少しきつい性格を思わせるのか、初めて会う男たちを一瞬逡巡させるところが欠点といえば欠点といえた。
などと書いてくれたほうが、完璧な美人ではないにしろ相当な美女で、ああ、誰もがその魅力に取りつかれてしまうのだなと思う。
ところで、その‘瑕疵’というか‘欠点’がない、「完璧な美女」がエリザベス・テーラーなのだと言われていた。この機会に彼女の代表作とまではいかないが、話題作であった『クレオパトラ』を観てみた。1963年の大作で、現在の価値で3億ドル(当時4400万ドル)以上かけた大スぺクタルである。DVD2枚で4時間半。普通の映画の3本分。劇作でもシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』と『アントニーとクレオパトラ』の2作分ある。
長さはともかく、壮大な歴史的場面とクレオパトラ(エリザベス・テーラー)の美しさ、実在の英雄(ジュリアス・シーザー、マーク・アントニー)の描写などを楽しめば、それはそれで飽きずに済む映画である。
意外に思ったのは、エリザベス・テーラーは、その欠点のない、「完璧な美女」であるにしても、最近多いハリウッド女優の美脚プロポーション型女優ではないということである。身長1メートル57というと、日本の女優と変わらない。むしろ、今では日本の平均的な女優よりも小さいくらいだ。彼女の全盛時代にさかのぼっても、それほどスタイルが抜群とはいえなかったようだ(映画では、ほとんどそれを感じさせない)。
「絶世の美女」(クレオパトラへの賞賛とかぶってしまうが)と言われるからには、その美貌もさることながら、肉体的な美しさにも言われなければならないと、自分では勝手に思っている。その点は、エリザベス・テーラーにしては、あえて「欠点」といってしまえばそうなのか。そうなると、やはり、「完璧な美女」はいないものなのか。
― 彼女は完璧な美女である。
と、小説作品で書いてしまえば、それが「絶世の美女」となるのである。