FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

北斎「富嶽一景」 ~ 心に残る富士この一枚

2013-11-04 00:06:05 | 文学・絵画・芸術

                                        葛飾北斎『江戸日本橋』

 北斎と広重を並べると、どちらを選ぶだろう(「浮世絵Floating World」第2期)。迷いあぐねた末、「いずれも」と言うしかない。 

 富嶽三十六景。

 僕は、小学校の頃から父親のマッチ箱に刷られた「五十三次」で広重に親しんできた。懐かしさもこめて改めて広重を思った(「東海道五十三次 人、景色~マッチ箱の広重」)。しかし・・・。やはり「三十六景」ひとつひとつを見てみると、僕なんかが言うのもなんだけど、「北斎、さすが!」と思う。今さらだけど。 

 あの、実際よりもとんがった、急斜面の富士の稜線は、かなり印象を与える。幼少から実物の富士を見慣れた僕には、富士山は山というより、偉容と寛容そのもので、両端にすーぅっと広がっていく裾野は、すべてを包み込んで許してしまう鷹揚さがあった。でも、北斎は、とんがった富士である。てっぺんは、白く冠雪した先端型の塔のようで、こちらは上へ上へと伸びて行こうとしている。 

 三十六景(裏富士含め四十六景もある)、順番に繰っていくと、当たり前だが、どこかに必ず富士がいる。「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」や「凱風快晴(がいふうかいせい」は有名すぎてわざわざ探す必要はないが、絵のど真ん中にいながら(端っこにいるときもある)、どこに富士がいるのか、一瞬、探させる楽しみを持たせてくれる。「江戸日本橋」「深川万年橋下」「尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)」など。 「五十三次」はそれぞれの中に民衆を見る楽しみがあった。広重も抜群にいいが、この「富士を探す楽しみ」を与えてくれる、すべて違う構図は、なかなか得がたいものだ。そして、それぞれの富士。 

 赤富士、青富士、白富士に逆さ富士、波富士、海富士、桜富士に紅葉富士、雲富士、遠富士と近富士 、なんでもござれの富士である。鏡富士、雷富士、桶富士、橋富士、材木富士、鶴富士、松富士、凧富士、手綱富士に冬富士。山並富士、煙富士、日暮富士と舟富士、風富士、見晴富士、湖畔富士や水車富士。道中富士、夕富士、鳥居富士、峠富士、雪富士、白雨富士、光富士、田畑富士に川越富士、そして朝焼富士。 

 よくもまあ、ここまで違う富士を描いたものだ。北斎は、「富嶽」だけを描いたわけではない。ほかの風景画や美人画、奇想画も描いている。しかし、北斎を見る者はどこかに必ず富士のいる印象が残る。見た者には、百景、千景にも心に映る。 

 河口湖畔から見る冬の富士山は、はっとするほど、美しい。遠くで見つめていた色白の美人をいきなり間近で見たような驚きがある。湖畔にある河口湖美術館には(訪れたのはもう何年も前になる)、富士山の写真がそれこそ百景、二百景も飾られている。しかも毎年、展示は変わる。北斎ならずとも、プロ・アマの写真家が競って自分の「富嶽一景」を求めている。 

 富士は偉大である。しかし、それを描いた北斎も偉大だ。変幻自在。富士百景の姿を、ありきたりのように描いて自分の世界をつくってしまった北斎の浮世絵。広重とは別の世界へと惹きつけられる。 

 「私の一景」。・・・じつは、これを書いてても、選びきれないでいる。 (冒頭に挿入した一枚は、富士を探す例として挙げたにすぎない。)