■知の巨人とは、「知る巨人」である
東京小石川に「猫目ビル」といわれる建物がある。外壁に巨大な猫の目が描かれている。「知の巨人」、立花隆氏の書斎専用ビルである。テレビで特集していた細長い4~5階建ての建物だ。ビルというより、縦長の大きな箱で、その中は、それこそ資料だらけ、本だらけである。図書館並みの本が棚に並んでいるというより、無造作に積上げられているといったほうがいい。身内であっても棚の上、机の上にあるものは一切触らせないというし、それでも本人にはどこに何の本があるかすべてわかっている、何万冊ある中でだ。
あれだけの著作を次から次と出す人だから、本の数もすごいだろうと思っていたが、それ以上だった。おそらく何年かのうちには次のビルを探さなければならないだろう。これは、作家やジャーナリストの宿命みたいなものだ。「巨人」と言われるだけあって、読むほうも「読む巨人」である。
テレビのインタビューの中で記憶に残ったのが、「1冊の本を書くのに500冊は読む」という言葉だ。やはりそれくらい読まなければ本など書けるものではない。いや、書いてはいけないのだ。わずか2~3冊のタネ本を読んだり、ネットで記事をかき集めて来たところで、本物など書けやしない。ましてや、人の書いた文章をコピペしたところで、作品になるはずがない。
■「脱魂」は快感だ
立花氏はまた、「脱魂(だっこん)」という言葉を使っていた。本の中の真実に魂が奪われてしまう、すなわち「魂が抜けてしまう」ということらしい。この楽しみは、「射精」(テレビでこんな言葉使っていいの?)よりも快感であるという。これだけの書物を読んで、あれだけの書物を書いている立花氏でも、真理というものがいまだわからないという。わからないから知る、だから楽しみということなのだろう。真理というのは追いつめても追いつめても、そして追いつめれば追いつめるほどわからないその先にあるものらしい。
宇宙、哲学、性、生態文明、サル学、物理学、IT、ガン、脳死、臨死体験、政治、裁判、天皇、ジャーナリズム、・・・、ざっと知る限りでも立花氏の守備範囲(というより攻撃範囲)はこれだけ広い。興味深いのは、氏が老年となり、ガンの治療にかかるようになってから、死というものを強く意識し始めたということである。死を迎えつつ、自身を思考の実験台として真理を究明していく姿、そして今後そこからどのような本が書かれるかということがひじょうに興味深い。
■臨死体験と脳と意識
NHKスペシャルで、立花隆氏の「臨死体験」についてのレポート番組があった。20年前、立花氏が書いた「臨死体験」の本を読んだことがある。臨死体験というのは、脳がつくりだしたもので、臨死からの覚醒直前に起きる夢のような意識であるという説もある。しかし、それでは自らが臨死状態にある時に現実に起きていることを認識できていたということを説明できない。
例えば、本人が病室のベッドで死の淵をさまよっている時の室内の様子を、あたかもビデオで撮っていたかのように本人自身が蘇生後に詳細に語っている。死に瀕しても声だけが意識の底で聴こえていたのだろうとは、わけが違う。身内が泣いている様子や医師と看護師たちがあわただしく話したり蘇生術を施している光景を映像として記憶しているなど、その場に居合わせて知覚していたという以外にありえない。病室という「密室」で体外離脱して、本人の意識(魂)が上から室内を見下ろしていたということになるし、多くの臨死体験者も同様のことを体験している。
■臨死によって宗教観は変わるか
もし、死の間際に人が絶対的な存在(真理、神、仏)に出会い、至福の状態になれるよう脳が仕組まれているのならば、人はどんなに苦しい人生でも死を恐れることなく、死を迎えることができる。立花氏は、そのように語る。それは、たぶんそうだろうと思う。宗教というのは、そういうところから生まれたのだと考えられる。どのような人にも、臨終の時には阿弥陀仏が菩薩たちを伴い、あの世へのお迎えに来てくれる。これほど人々の救いになることはなかっただろう。(念のために、立花氏は宗教についてはいっさい触れていない。あくまで脳の仕組みについて言っているのであり、僕もそれを前提としている。)
しかし、一方で最初からそれを見込んでいる悪人は、どうなんだろう。どうせ死ぬ時には善人も悪人も最期はお迎えが来てくれて、至福な意識を持ってあの世に行けるとしたら、死の間際の悔悛というものはいらなくなってしまう。宗教では、そういう者は地獄に堕ちるのだが、脳が最初から誰でも死に際して光悦を得られるように仕組まれていたら、地獄というものはなくなってしまう。
それとも、あの世に行く時の光悦は、どんな悪人も死に際して、その生前の生き方に応じて強い悔悛を求められて、それによって光悦度(ランク)も変わってくるのか。浄土宗や浄土真宗では、極楽へのお迎え待遇ランクが生前の生き方に応じて変わってくるという。あるいはまた、親鸞の「悪人正機説」のように、悪人こそ救われる度合いが強いのだろうか。これとても、もとより悪人である者はなく、生きるために大罪を犯さざるをえなかった人間の業を救うための方便である。
こうなると、臨死の体験というのは、脳科学と宗教という意識の問題にも関わってくる。立花隆氏は、2度目のがんの発症によって、自身の死を強く意識して、臨死における脳の働きを強く知りたいという欲求をもったという。おそらく、病と年齢による残された時間を考えると、この壮大なテーマが立花隆氏にとって最後の(?)著作となるのだろうか。