大物浦図小柄
大物浦図小柄
平家追討に大きな役割を果たした義経は一躍有名になり、合戦以後は京堀川に屋敷を賜り、ここを拠点とし、京の公家とも関わりを深めて次第に権力を高めていった。このように、鎌倉の頼朝は理解した。頼朝にとって武家の構造は、頼朝を頂点とするピラミッド。その一角が特殊な構造となっては、ピラミッドが崩壊しかねない。自らの指示なしに行動する義経は排除の対象と判断された。そこには、血を分けた兄弟という意識はなかった。
追われることとなった義経勢は九州を目指して逃避を断行。ところが大物浦(兵庫県尼崎辺り)から船出したものの嵐に遭遇。船団は散り散りになり、押し流されて住吉辺りに上陸、九州への逃避は不可能と判断し、奥州藤原氏の許へと向かうことを決意した。
九州へと向かう船を押し返す嵐は、瀬戸内に沈んだ平家の亡霊が起こしたものと伝説されている。この小柄は、船の先に現われた平知盛の亡霊に立ち向かう弁慶を描いている。
大物浦図小柄
平家追討に大きな役割を果たした義経は一躍有名になり、合戦以後は京堀川に屋敷を賜り、ここを拠点とし、京の公家とも関わりを深めて次第に権力を高めていった。このように、鎌倉の頼朝は理解した。頼朝にとって武家の構造は、頼朝を頂点とするピラミッド。その一角が特殊な構造となっては、ピラミッドが崩壊しかねない。自らの指示なしに行動する義経は排除の対象と判断された。そこには、血を分けた兄弟という意識はなかった。
追われることとなった義経勢は九州を目指して逃避を断行。ところが大物浦(兵庫県尼崎辺り)から船出したものの嵐に遭遇。船団は散り散りになり、押し流されて住吉辺りに上陸、九州への逃避は不可能と判断し、奥州藤原氏の許へと向かうことを決意した。
九州へと向かう船を押し返す嵐は、瀬戸内に沈んだ平家の亡霊が起こしたものと伝説されている。この小柄は、船の先に現われた平知盛の亡霊に立ち向かう弁慶を描いている。