継信最期図目貫
継信最期図目貫 無銘
義経に従い、宇治川、一ノ谷と転戦した継信(つぎのぶ)は、そもそもは奥州を支配していた藤原秀衡の武将であった。ここに身を寄せていた義経が頼朝の許へ向かうことを決意した際、秀衡は義経の護衛を継信らに命じたのである。
水際を境界に対峙していた源平両軍は比較的穏やかな様相を示していたが、軍舟上の平教経の弓が常に義経に向いていることに継信は気付いていた。教経は平一門中屈指射の弓の名手。継信は常に義経の前に自らの馬を歩ませていた。その間隙を突いて矢が射られた。これを察知した継信は、危険を告げるより先に自らの身体を楯にして義経を護ったのである。
この目貫は、舟上の教経と、射られた継信が馬上から崩れ落ちる継信を描いたもの。
継信最期図目貫 無銘
義経に従い、宇治川、一ノ谷と転戦した継信(つぎのぶ)は、そもそもは奥州を支配していた藤原秀衡の武将であった。ここに身を寄せていた義経が頼朝の許へ向かうことを決意した際、秀衡は義経の護衛を継信らに命じたのである。
水際を境界に対峙していた源平両軍は比較的穏やかな様相を示していたが、軍舟上の平教経の弓が常に義経に向いていることに継信は気付いていた。教経は平一門中屈指射の弓の名手。継信は常に義経の前に自らの馬を歩ませていた。その間隙を突いて矢が射られた。これを察知した継信は、危険を告げるより先に自らの身体を楯にして義経を護ったのである。
この目貫は、舟上の教経と、射られた継信が馬上から崩れ落ちる継信を描いたもの。