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文明批評の発言が注目される精神科医・作家 野田正彰さん(70) ~~~2014年11月5日付 中外日報(ほっとインタビュー)~~~

2018-07-24 19:48:47 | Diaries
http://www.chugainippoh.co.jp/interviews/hot/20141105-002.html(2/2ページ)


文明史的にこの日本というものを考えた場合はどうでしょうか。

野田 日本の特性は、孤立した島国であることを忘れてはいけない。それが良かった面もあるが、マイナス面が大きい。

例えば天皇制のような特殊な社会システムを温存できたのは、島国だからです。近代の100年にわたり、歪んだ形で西洋など5カ国くらいをモデルに覇権国家を造ろうとして、むちゃなことをやって敗戦を迎えた。それで私たちは大きな教訓を得ましたが、70年もたつと、その教訓が薄らいできた。ヨーロッパの国だったら、周りの人たちといろんな摩擦を起こしながらも、コミュニケーションして生きているから、こんなことにはならない。

日本の特質は、朝から晩まで「日本では」と言っている。例えば同業種の中で、自分の会社が日本一だとか、日本で何番目の市場を持つとか。自分たちが限定された社会の中で生きるように、文化的バイアスがかかっている。私はいろんな世界を回ったけれど、そういう発想で生きている人たちは他にないですよ。

結局、海外に行っても金魚鉢に入って旅行しているようなものですよ。コミュニケーションしていませんから。

それは宗教の在り方にも関わっていますか。

野田 アメリカで布教しても、アメリカに渡った日本人を中心にしている。相手の事も知ろうとしない。例えば自分たちが戦前・戦中にアジアでどんな布教をし、どんな問題があったかを研究していない。相手の事を知って、自分の事も伝えることが「会話」です。そのディスカッションがない。

日本という枠組みの中でしか、物事を考えていないのでしょうか。

野田 どんな社会でも既存のものを保持しようとするし、保持しようとしても壊される。島国でなかったら、もっと日々壊されたり、つくり替えられたりするし、そうなることが現実だという認識がある。でも日本は狭い社会だから、守ろうとしたらかなり守れる。

狭い社会は精神病理学の用語を使うと、ある意味で強迫的な精神状態にあります。狭いから、きちんと完全なものをつくることができる。大きな社会では細部にこだわるよりも、本質とは何か、が常に問われる。

私は、日本人には強迫文化が似合っていると思う。狭い範囲で生きているから、きちんとやろうと。清潔好きもそうですね。狭い範囲だから清潔にできる。でも確かに家はきれいにしていることが多いけれど、家の周りは使い古した物を整理せずに置いている。ヨーロッパの農家を見ると、景観が日本よりも整っています。

日本人は、自分の範囲を決めて、そこできちんとやろうという志向が常に強い。何が本質かを考えることをしなくてもいいし、狭い範囲できちんとした形式を整えると満足する。

本質を考えることがなくなっていると。

野田 立派な形式がいっぱいありますから。例えば仏教における修行もそうでしょう。きちんとした形式があって、それに向けて他を排して専念するのは、気持ちいいことだし、自分が磨かれたような思いになるでしょう。でも、それだけでは仏陀がなぜ出てきたのか、何を説いたかが問題になってこない。

形式を受け継ぐことは必要でしょうか。

野田 人間の事象だから、本質を問うことと、形式を守ることの両面があります。ただ私たちは地政学的に島国だから、形式だけで満足できる環境にあるということです。

むしろ自分からそういう枠を取り払って、海外の人たちときちんと対話することが必要ということですか。

野田 そうです。相手のことを知らないといけないし、自分の考えていることを一生懸命伝える会話が必要でしょう。

敗戦直後は戦争の反省があったから、「人間とは」と皆が考えたと思う。今はそうじゃなくなっている。日本以外の人と、心から会話することが減っている。ニューヨークに行っても、音楽とか技術とか、消費文化だけを身に付けて帰ってくる。アメリカ社会が持つ矛盾とか、ほとんど知らないし、会話もしていない。

現在の仏教界、宗教界に対してどのような意見を持っていますか。

野田 まず、現在やっていることをきちんと保守してほしい。私はいろんな所で言っていますが、宗教は国家よりも古い。人間の在り方を問い掛けた宗教があり、そのもとに宗教教団ができ、形式がつくられた。国家は後ですよ。国家は宗教をモデルにして、宗教を利用しながら造られた。

だから国家に単一化された国家主義になってはいけない。国家と違う発想で、社会の在り方を問うセクターを持つことは、私たちの社会で最も望ましいことです。

お寺はいろんな歴史を背負い、江戸時代の檀家制度で、キリスト教の強圧と管理のための宗教になった歴史はあるけれど、お寺さんが地域社会の中で一つのよりどころになっているのは良いことだと思う。キリスト教も、たとえ武士道的キリスト教で限界はあっても、誠実に生きようとする多数の人を教会に集めてきた。

それを保守しながら、同時にそれぞれの宗教を切り開いた人たちが何を見つめていたのかを踏まえて、自分たちも前に一歩踏み出してもらいたい。

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中外日報 社説
2018年
07.18 オウム以後の時代 改元で封じられない問題 http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2018/0718.html
07.13 オウムの死刑執行 教祖麻原の責任を明確に http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2018/0713.html
07.11 オウム事件と死刑 宗教の「赦し」といのち http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2018/0711.html

死刑で いったい何が解決したのか 答えられる役人がいないということは 答えられる政治家もいない ということになります。
はりつけ 獄門 みせしめ の時代に 戻りたい 抑止力にもなる といわんばかりです。

答えたにしても、それは市民を代表としての意思にはならない。一役人、一政治家が胸の内に秘めている思想が一部表明されたということでしかありません。

100%全体の意思、全市民の意志であったという瞬間は一瞬たりともなく、あくまで いま 権力を預かっている人間の意向にすぎない ということになります。

いま 権力を預かっている人間が 薬殺とか電撃殺とか検討したこともないという問題はあるでしょうが。

問題があるということは、賛成派、反対派が生じる以前に、薬殺に支持が傾くとか、電撃殺に支持が傾くとか、そういった議論が具体化することのないようにという意向が働いていることの裏返しであるのかもしれません。

ここしばらく日本代表監督を社会の力をもってして解任するといった事象が立て続いておりましたので、紛争当事者のどちらにしてもセコンドについてくれたら心強い。助かる。と重宝がられるのはいったい誰か?精神科医か?修行僧か?というところになってきています。

これまでのいきさつをふりかえってみると、目には目を、パワーにはパワーを、ということで、緊張・対立を極限まで高められるだけ高めて、どちらかがちからわざの応酬についてこれなくなるまでやめないという格好になっていました。


続いて 2014年9月24日付 中外日報(ほっとインタビュー) 

元高校教師 水谷修さん(58)(2/2ページ)http://www.chugainippoh.co.jp/interviews/hot/20140924-002.html に移ります。

心を病んでいる子どもたちにとって宗教は有効でしょうか。

水谷 22年前から夜回りを続け、12年前に心を病んでいる子どもたちの存在に気付いた。「死にたい、リストカットが止められない、レイプされた、虐待されている、いじめに遭っている」と苦しんでいる子どもたち25万人以上と向き合ってきた。

心の病を治すには四つの方法がある。一つは、薬で治す医学的方法。しかし、家庭内暴力など環境が変わらないのに薬で脳をいじって治すことは許されない。二つ目は、心理学を利用したカウンセラーによる論理的方法。病むようになった原因を探し出していくわけだけど、どれだけの人間が論理だけで生きているのか。ましてや、子どもたちは直観的、本能的、感情的に生きている。そんな子どもたちに論理的なやり方は意味がない。

三つ目は、物理的方法。心と同じように身体も疲れさせてやる。僕が花園大で教鞭をとっていると相談に来る学生がいる。その時は化野念仏寺まで歩きながら相談を受ける。文句を言いながら往復4時間くらい歩き続ける。すると終わってみれば「昨日は久しぶりにぐっすり寝られた。力が湧いてきた気がする」と言ってくる。このことに1200年前に気付いたのが弘法大師空海。お遍路は毎日歩いて疲れる。それに接待で人の愛に触れる。それでどれほどの若者が救われたか。

そして最後が超越的方法。宗教だ。そもそも日本では、明治時代まで精神科医なんて職業はなかった。その役割を担っていたのが僧侶だった。悩んだときにはお寺に行っていた。しかし、国家神道によって仏教の力が削がれ、弔うための仏教になってしまった。仏教に限らず宗教は本来、生きることを支えるためにある。今だからこそ、宗教が良く生きる、きちんと生き抜くことを支える存在にならないといけない。つらいとき、苦しいときにお寺や神社、教会に行って手を合わせることで、どれだけ救われるか。

今の世の中は「考える」とか「行動する」ことが重視されるようになっている。苦しいとき、考えても行動してもどうしようもないとき、人間は「祈る」。祈りの大切さをもう一度取り戻したい。