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毎年7月1日から15日まで開催される700年以上の伝統の祭「博多祇園山笠」。櫛田神社に祀られる素戔嗚尊(すさのおのみこと)に対して奉納される祇園祭で、正式には櫛田神社祇園例大祭と言い「博多どんたく」とともに博多を代表する祭りです。
博多は大和朝廷時代(6世紀頃)、九州を治め大陸との外交を掌る「大宰府」の外交として開け、平安時代に入ると日栄貿易を始め大陸・朝鮮貿易の中心地として栄えました。その後、永禄・天正年間(16世紀頃)大友・毛利・島津・龍造寺氏が九州の支配を巡り、博多は何度も戦火に遭い灰燼に帰しました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉が博多復興に着手し、「博多町割り」と称する都市計画を実施しました。今日の博多山笠・博多松囃子を運営する組織「流」の原型はこの時できたものと言われています。徳川時代、筑前ノ国に封ぜられた黒田氏は博多の西郊に居城を構え、城下町を黒田氏の出身地に因んで福岡と命名します。「福岡」と「博多」を繋ぐために中ノ島だった中洲に「中嶌橋」を架けたのが起源と言われ以後町の中央を流れる那珂川を挟んで西側を福岡、東側を博多と呼んでいるようです。ちなみに中洲の誕生は慶長五年(西暦1600年)と言われています。
明治22年に市制が施行され福岡市が誕生するのですが、市議会に於いて「市名変更(博多市とする)の儀が提案されましたが、スッタ・モンダの末、1票の差で否決し福岡市の名称が確定したそうです。その年に博多~久留米間の鉄道が開業し、駅名を「博多」とすることで、市名に対する博多部の不満を押さえたのでした。(笑)
「博多祇園山笠」は1日のご神入れに始まり、昨日12日の追い山笠ならし、そして今日13日は15時半からの集団山見せ、アクロス福岡前から見物しましたが、やはり迫力満点!男の血が騒ぐ瞬間ですね。明日は14日の流舁き、翌日15日早朝4時59分は本番の追い山で大太鼓の合図とともに一番山笠から順に櫛田入りするのです。今年も博多の夏は燃えに燃えていましたね。
博多は大和朝廷時代(6世紀頃)、九州を治め大陸との外交を掌る「大宰府」の外交として開け、平安時代に入ると日栄貿易を始め大陸・朝鮮貿易の中心地として栄えました。その後、永禄・天正年間(16世紀頃)大友・毛利・島津・龍造寺氏が九州の支配を巡り、博多は何度も戦火に遭い灰燼に帰しました。天正15年(1587年)に豊臣秀吉が博多復興に着手し、「博多町割り」と称する都市計画を実施しました。今日の博多山笠・博多松囃子を運営する組織「流」の原型はこの時できたものと言われています。徳川時代、筑前ノ国に封ぜられた黒田氏は博多の西郊に居城を構え、城下町を黒田氏の出身地に因んで福岡と命名します。「福岡」と「博多」を繋ぐために中ノ島だった中洲に「中嶌橋」を架けたのが起源と言われ以後町の中央を流れる那珂川を挟んで西側を福岡、東側を博多と呼んでいるようです。ちなみに中洲の誕生は慶長五年(西暦1600年)と言われています。
明治22年に市制が施行され福岡市が誕生するのですが、市議会に於いて「市名変更(博多市とする)の儀が提案されましたが、スッタ・モンダの末、1票の差で否決し福岡市の名称が確定したそうです。その年に博多~久留米間の鉄道が開業し、駅名を「博多」とすることで、市名に対する博多部の不満を押さえたのでした。(笑)
「博多祇園山笠」は1日のご神入れに始まり、昨日12日の追い山笠ならし、そして今日13日は15時半からの集団山見せ、アクロス福岡前から見物しましたが、やはり迫力満点!男の血が騒ぐ瞬間ですね。明日は14日の流舁き、翌日15日早朝4時59分は本番の追い山で大太鼓の合図とともに一番山笠から順に櫛田入りするのです。今年も博多の夏は燃えに燃えていましたね。