小学校の低学年の頃である。夏休みのある朝「亨ちゃん、おきなさい。」という祖母の声で目覚めた。いつもなら10時頃まで寝ていてもうるさく言わない祖母がその日に限って大声を出した。
8月6日だった。「テレビをよく見なさい。」と祖母は言って僕をテレビの前に座らせた。8時15分になった。某国営放送では「広島の平和式典」を中継していた。これを見ろと祖母は言うのである。
僕の父方の祖父母は満州からの引揚者だ。祖父母は満州で知り合い結婚した。そして僕の父が生まれた。晩年祖父母はラブロマンスを語った。
「お爺ちゃんは硬派だからね。かっこよかったよ。」と祖母は言った。
「お婆ちゃんは小学校の唱歌の先生でね。歌が上手かったんだ。お爺ちゃんは塀越しにその声を聞いたものさ。」
祖父は浅草でオペラの同人誌を編集した経験をもつ。琵琶も弾く。音楽の素養があった。大正デモクラシーの時代だ。そんな経歴を持つ祖父だから声の良しあしがわかる。祖父は祖母の歌声にまず惚れた。最晩年の祖父はその恋を浄瑠璃仕立てで語った。
「いやさお静、道行と行こう。」「そういう貴男は実さん。」
こうした祖父母だったが、満州に移民して、敗戦とともに全財産を失った。祖父は満鉄勤務だったから引揚船の順番はすぐに来た。それなのに引揚船の順番を三度他人に譲ったそうだ。「あの家は子供がいるから。」「あの家は妊婦さんがいるから。」もちろん家族には内緒だ。自分が損をしてまで、引揚船の順番を譲るなど考えられない。事実父は大学進学の時期を逸した。3年ほど満州に残ったからだ。だが暴動に巻き込まれたことはないという。父は中国人、朝鮮人に親友が多かった。戦時中も中国人、朝鮮人をかばうことが多かったそうだ。
そんな一家だったが中国人にとっては侵略者だったのだ。ただし戦争は我が家に大きな傷を残した。だから祖母は「広島の平和式典」を僕に見せたかったのだ。15日の「戦没者慰霊式」も涙を流して見ていた。中国残留孤児の番組も食い入る様に見ていた。「知った顔がないかと思ってね~。」
広島の平和式典のあと祖母が言った。「亨ちゃん。感想は?」小学生の低学年が満足に応えられるわけがない。「情けない。」と祖母は一言いったが答えは教えてくれなかった。自分で考えろということだろう。
そんな僕が大学時代にあったのが加藤周一の言葉だ。
「戦争は情報操作と大衆迎合からはじまる。だから怖くても少数派になる覚悟が必要だ。」『戦後世代の戦争責任』
体制に異議申し立てするのは損な役回りだ。「沈黙は金」「長い物には巻かれよ」という言葉もある。だが少年期からの思いは消せない。
必要があると思うときは積極的に発言して行こうと思う。
加藤周一『戦後世代の戦争責任』はこのブログの「書評:文学歴史」で紹介しています。