・硝子戸の中に対照の世界ありそこにもわれは憂鬱に立つ・「さるびあ街」
テキストにより「対称」となっているものもあるが、正しくは「対照」。
硝子戸に映っている自分の姿を見ている。つまり、作者は硝子戸越しに外を見ているのである。夜である。なぜなら夜でなければ自分の姿は映らないから。そこに作者は憂鬱な姿に映っている。
大岡信の「折々のうた」では「日常の些細なことでも歌になる」とさらっと述べられているが、どちらかといえば「重い歌」である。その重さの理由は「さるびあ街」の「あとがき」に書かれているのでそちらにゆずる。
ここでは「対称の世界」ではなく、「対照の世界」であることに着目してみたい。
作者は憂鬱な心で、硝子戸に映った自分の姿と自分自身とを重ねて見ているのである。二つを比較対照している。だからこそ、「そこにも」であり、「対照」なのである。硝子戸は鏡と同じく虚像を映す。
「左右対称」の虚像をである。その事実だけを説明するなら、「対称」で十分である。しかし短歌=詩は、情報の伝達ではなく心情の表現が目的である。だからこそ「対称」ではなく「対照」がふさわしい。