天童大人プロデュース 「詩人の聲」2015年1月(3)
8、高橋睦郎 1月26日(月)於)東京平和教会駒込チャペル
第13回公演。高橋睦郎は詩人であり、歌人であり、俳人でもある。その高橋が思潮社から『続々高橋睦郎詩集』を刊行した。「詩人の聲」のプロジェクトへの参加を、暫らく休んでいたが、詩集の刊行を機に、聲を撃つと聞いて、聴きに行った。
高橋は東洋文明、西洋文明への造詣が深い。彼の著書『百人一首』(中公新書)は、西洋の詩や、漢詩と比較しながら、百人一首を、紹介している。
この日は新詩集のテーマごとの作品を、高橋がテーマの意味を語りながら読まれて行った。そこから分かったのは、高橋の作品が、彼の美的意識や世界観に基づいて制作されていることだ。いわば作者の持てる資質そのものから直接的に飾らず、嘘をつかず、素直に作者の人間そのものが、作品に昇華しているという事。
高橋の講演を始めて聞いたのは、故、今西幹一氏(元国学院大学学長・佐藤佐太郎の研究者)からのお誘いで、途中参加した日本大学国文学会の、公開シンポジウムの場だった。
テーマは「読むと詠む」。国文学の研究者に短歌を詠むのを勧め、歌人に短歌の研究を勧めると言う内容だった。その講演に触発されたのが、僕の評論集『斎藤茂吉と佐藤佐太郎』だ。そのときの高橋の話に、彼の世界観が垣間見えた。何やら神がかっていた。当時は違和感を感じたが、2013年の「詩人の聲・高橋睦郎公演(12回目)を聴いて考えが変わった。
高橋は唯神がかっているのではない。ギリシャ、ローマなどの古代文明への畏敬の念を持ち、日本の伝統文化への深い洞察と理解がある。それが神への信仰に似た感受性を育み、それを現代詩、短歌、俳句に表現しているのだ。
人間にはそれぞれ違ったパーソナリティーがある。それが作品の魅力になる。だから高橋の現代詩、短歌、話しには一貫性がある。他人を不快にする独善も厭味もない。高橋の詩集と歌集をその場で買って読んだが、その確信はゆるぎないものとなった。
自分には他人にないものが必ずある。それが作品になれば読者の心をうつ。高橋の作品は神道の神主の祝詞のようだ。それが保守反動と感じられて、高橋を毛嫌いする詩人もいる。だがそれには先入観がある。神道=反動。これは違う。例えば三島由紀夫の評価。高橋は、三島と交際があった。NHKの三島の文学と三島の自決を放送した番組にも出演していた。三島へ捧げる挽歌のような作品も書いている。だがそれは三島の全てを肯定しているのではない。
三島が日本の伝統文化を重んじたことに理解を示しているのだ。公演後の懇談会でそれが、はっきりした。本の販売がサインセールだったので、「星座選者 岩田亨」という名刺を出したら、「おや、あなたは尾崎さんのところの方ですか。」という丁寧な言葉が返ってきた。これが縁で、懇談会では、高橋の正面に座り、酒を呑みながら話し込んだ。高橋から見れば、僕は「馬の骨」だ。だが高橋は気さくに飾らず僕に話しかけてくれた。
当然話は、前日放送された三島由紀夫にも及ぶ。高橋が正確に何と言ったかは、覚えていない。だが話を聞いて、僕はこう尋ねた。
「つまり、三島は戦後をどう生きるかを、模索しているうちに、土壺にはまってしまったのですね。」
怒られるかと思った。「君は三島がわかっていない。」と。だが高橋は静かに頷いた。(「そうなんだ。」と言ったかも知れない。)その頃から僕の目は高橋への羨望の眼に変わった。
高橋の酒の飲み方を見つめた。飯の喰い方を見つめた。粋な呑み方をする。豪快な喰い方をする。だがいやしくない。それから、短歌の話、詩人の鮎川信夫の話、田村隆一の話、歌会の話。弾みがついた。鮎川信夫の作品に感じていたことは、僕と同じだった。
表現者としては、こうありたいと思った。僕と高橋はおそらく世界観は異なるだろう。意見の隔たりもあるだろう。しかし尊敬に値する人物だ。尊敬する人物が一人増えたのが、何より嬉しかった。