北杜夫は斎藤茂吉の次男。本名・斎藤宗吉。この次男坊が学生時代、父・斎藤茂吉と競詠したことがあります。
斎藤茂吉の作品に北杜夫が応える形となっています。
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・沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ・「小園」(1945年・昭和20年)
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・沈黙の人の見つらむ山水のその源を尋ねゆくこころ・「寂光」(1947年・昭和22年作)
宗吉の作品の2句目が甘い。「らむ」は古今調だが、ここでは声調が合わなくなっている。「つ(過去の助動詞)+らむ(推量の助動詞)」だったら、ここは「けむ(けん)」(過去推量の助動詞)の方が合うだろう。とこんなふうに茂吉は言うだろう。
よって添削。
・沈黙の男も見けむ山水のその源を尋ねゆくこころ・
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・最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも・「白き山」(1946年・昭和21年)
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・このゆふべ露の冷えゆく土手の上に滅びの歌をうたふ人あり・「寂光」(1947年・昭和22年)
宗吉は茂吉のそばで立ちあったわけではない。だから推量の助動詞を使った方がいい。と茂吉はこんなふうに言うだろう。
よって添削。
・このゆふべ露の冷えゆく土手の上に滅びの歌をうたふ人あらむ・
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以上の茂吉の二首は、戦時中の言動の責任を問われた作者が「追放」状態になっている時の絶唱である。茂吉は沈黙したが、僕は茂吉の過誤、「負の遺産」だと考えている。(「カテゴリー/茂吉の宿題」を参照。)その沈黙する茂吉を宗吉(北杜夫)がなぐさめているのである。
しかし茂吉は息子からの慰めより、息子の将来を心配した。
「大学受験の妨げとなるから、歌などもうやめろ、と厳命した」と「寂光」の「はしがき」にある。「俺はお前の歳にはもっと上手かったぞ」という茂吉の声が聞こえるようだ。
当の宗吉のほうは、第二芸術論に反駁するような作品も作っている。
・観念のアナクロニズムと誰か言ふ古びし床にひとりごちつつ・「寂光」(1947年・昭和22年)
それにしても思うのは三つのこと。
一つは北杜夫の歌集「寂光」。「北杜夫若年歌集」と副題がついているが、短歌作品より「はしがき」を読む方が面白い。やはり北杜夫(斎藤宗吉)は散文家だったようだ。
二つは、個人的な思いだが、この歌集を古書店で買ったのは「運河」入会のずっと前。まさか茂吉佐太郎の末に連なろうとは夢にも思わなかった。「事実は小説より奇なり」ということか。
三つは、斎藤茂吉の素養のうち、文学の素養を継いだのが次男・宗吉(北杜夫)だったということ。岡井隆も斎藤茂吉の弟子だった両親の素養を受け継いでいるのだろう。「蛙の子は蛙」ということか。
