斎藤茂吉や北原白秋の時代には議論になりえなかったもののひとつに「旧カナか新カナか」という問題がある。今は旧カナを使わず、新カナ表記をする人が多数をしめている。議論になるのは「文芸の中で短歌や俳句だけがなぜ旧カナを使うのか」ということ。
「旧カナ」を使うだけで短歌や俳句が一般の読者から遠ざかり、「非日常的」なものになってしまう、という意見が一方にでてくる余地があるからだ。一般の読者が離れることは、「作者群=読者群」と歌壇が閉じられたものになってしまうという意見も。
こういった問題を背景に昨年(2010年)の10月30日、岩手県の「日本現代詩歌文学館」で、「詩歌のかな遣い-< 旧カナ >の魅力」というシンポジウムが開かれた。
開館20周年の催しだそうだが、館長(篠弘:前・現代歌人協会理事長)が以前総合誌で、
「旧カナ・新カナの問題をめぐって、シンポジウムを開こうと思う。」
と書いていたので、どういうシンポジウムになるか僕は密かに注目していた。短歌のみならず「詩歌」と名がつくからは、歌人のみならず、現代詩・俳句の分野からのパネラーも想定された。
決議文やアピールが採択される集会と違って、シンポジウムの目的は結論を導くことではないと僕は思う。しかし、< 「旧カナ」の魅力 >というテーマ設定でわかるように、結論はすでに出ている。「詩歌、特に短歌や俳句は< 旧カナ >で表記すべし」である。
ここにどうしても僕は違和感をぬぐえない。館長自身は「旧カナ」派だ。だからこういうテーマ設定になったのかも知れないが、その辺のところはよく分からない。
遠方なので僕はそのシンポジウムを直接聞いていない。そこでとりあえず「角川・短歌」2011年1月号の「歌壇時評」(今井恵子)から引用させて頂く。
・武藤康史(言語評論家):「今日の歴史的かな遣いは、資料から正しいと思われるものを追究して作られるもので、日々変化してゆくので、・・・安定的正解があるのではない。」
・松浦寿輝(詩人・仏文学者):現在書かれている現代詩が9割9分< 新カナ >である中、詩集を上梓するにあたって、< 旧カナ >を採用した動機と経験。
・小川軽舟(俳人):「ゆうぐれ」を「ゆふぐれ」と書いたとき、古代人の唇の音を今に聴いているのだと、「時間的連続性」として「旧カナ」使用を説明。
・永田和宏(歌人):第ニ芸術論をひきずっていた戦後短歌から切れたところに、近年「旧カナ」を使う若い人々が多くなったと言い、自身も「新カナ」から「旧カナ」に切りかえた。
これだけではシンポジウム全体の様子がよくわからないが、「旧カナ」を使う魅力・根拠が僕には伝わってこない。
近世に独立した文芸として成立した俳句に携わる人が、「古代人の唇の音を聴く」ことに、いかなる意味があるのか。第二芸術論をひきずるかいなかという外的条件で(つまり作歌個人の主体的選択でなく)「旧カナ」が使われるのか。「安定的正解(=基準と思われる)」がない表記をわざわざ使うのはなぜか。疑問は尽きない。
「短歌を定型の現代詩、現代文学と考えるなら、旧カナを使う必要はない。それどころか、短歌を特殊な人々の特殊な文芸としてしまうのではないか。」
ただこれには館長である篠弘のメッセージがあるような気がする。
「短歌はゲームではなく文学である。新カナを使うなら、はっきりとした根拠を示し、短歌は文学であるという覚悟を持て。」
しかし、それならそうとはっきり発言すべきだと思う。「短歌はゲームではない」と。僕も「短歌のゲーム化」を憂うひとりである。
ともあれ、そのシンポジウムの発言の詳細を知りたいものである。どこかの総合誌で活字におこしてもらいたいと思うのである。ちなみに僕は「選べる時は新カナ」と決めている。旧カナでは短歌の作者と作歌をしない読者の距離がますます離れ、短歌が「特別な世界の特別な文芸」になってしまうように感じるから。作者群イコール読者群というのはどう考えてもおかしい。(このことについては既にに記事に書いたので、くわしくはそちらを参照して頂きたい。)