Rainbow Valley
原題には「アン」がついていなくて、子供たちが主人公の群像劇。
アンの子供たち上の4人と、同年代の牧師館の子供たち4人。家の裏にある「虹の谷」で子供たちだけで集まって遊ぶ。
松本侑子さんの全文訳と詳し過ぎる注釈を、今回も楽しみにしていました。
まずは、ほかの人も皆さん言っているけど、びっくりしたのが本の厚さ!
村岡訳はすっごく薄いの。
だからといって、そこまで略されてる感じもしなかったしちゃんと話は通じてたんだけどねー。
松本訳は結構厚い。文字の大きさ、注釈が入ってることを除いても、すごい違い。
改めて新訳を読んでみると、ああ、この辺は読んだことないかもってとこが結構あったね。
ミス・コーネリアがやってきてゴシップ話してるところとか、記憶にないな?
あとは、前作「炉辺荘のアン」は、後から書かれたということをかんがみると、
「夢の家」の次に書かれたということをかんがみると、
後から書かれた作品によって、膨らんだなあと思う。
第一次大戦のときに書かれたのも、この作品に影を落とす。
自身の息子たちはまだ小さかったから召集はされなかった。
けれど、自分の教会(モンゴメリは牧師の奥さん)の信徒さんの息子さんたちが行って、そして戻ってこなかったりした。
この作品の時代背景は、まだ戦争の始まる前であり、子供たちが大きくなったときにちょうど戦争が始まってしまう。その前のつかの間の美しい日々。
その儚さを虹で表現しているのかな。
ハーメルンの笛吹きがモチーフとしてある。
これも、笛吹きが、若者を戦争に連れていくということを示している。
実際に次の作品でそうなる。次の構想がもうあったのではないかとの訳者の話だが、私もそう思う。2作品で1セットのような感じがする。
いつも毎回思うけど、この人は本当に人間を描く天才と思う。
特に、子供の気持ちがこんなに分かる人っていない。
メアリに鱈持って追いかけられたリラのところで泣くと思わなかったな私(笑)
あとは、ウーナがローズマリーのところへ行くところも涙ぼろぼろだった。
著者は、魂のことも、きっと分かっている。
例えば、ウォルターの魂は老成している。とか。
それは、キリスト教的理解なのだろうけど、やっぱ分かってるんだろうなーと思う。
自然描写も素晴らしい。
その風景を見ているアンを、描いている著者を、100年後の私たちが想う。遙かな気持ちになる。
きっと、それを、日本語で読めるのも幸せ。本当にありがとうございます。
物語の軸としては、妻を亡くした牧師と、若い頃に婚約者を亡くして独身の女性のロマンス。
こういうのも本当に好き。
子供たちが自分で自分を躾けるってとこは、悲しいな。
確かに、ある程度大きくなったらそれができるんだけど、これって周りの大人たちが言ってるから子供たちもそう思ってしまってるんだよね。私たちは誰も躾けてくれる人がいないとか、悲しい。それを父が聞いてしまうのも悲しい。親が1人はいるのに精神世界に夢中で、現実的な子育てに向いてないっていう。
最後の注釈もお楽しみ。
登場人物の名前の由来とかも分かって嬉しい。
例えば、牧師の長女は「フェイス」これは顔じゃないよ、信仰って意味だって。
キリスト教、私もちょっとかじったことあるので(カトリックの女子校卒)、聖書に「信仰、希望、愛」が大事、その中で一番大事なのは愛。って箇所があるけど、ここの「愛」は隣人愛って意味で、チャリティーなんだ。ラブじゃないのね。とか思った。
余談かな?
最近思ってることを、ウォルターが言っていた。
詩が好きで大人しい子、アンの二男のウォルターが、女の子のために初めてケンカするところ。
「でも、これからは、もう怖がりませんよ。何かを恐れる気持ちは、恐ろしいことそれ自体よりも、始末に負えないのですね」
端的に言って、この3年間やられてきたことはこれだ。そこに立ち向かうと、なーんだ大したことないじゃんってなるけど、ずーっと恐怖心だけを植え付けられてきた。
いまだに新型で未知の、かかったら必ず死ぬ感染症って本気で思ってる人がどれだけいるのか知らないけど、ずっと、小さなものをメディアによって大きく見せられてきた。
それを端的に表しているなと思った。