中谷剛・著
著者は、この博物館唯一の日本人ガイドである。
彼のように、普通の日本人が、なぜポーランドにひかれたのか。てゆう話も興味深いものだった。
やっぱり、縁があって、導かれて、そこへ行ったんだろうねぇ。
「あいのり」でさぁ、ポーランド通ってたちょっと前にやっててさぁ、私も行ってみたい!って思ってたんだよね。
行きたいけど行けない、私みたいのにピッタリのご本だよぉ。
実際に行くのとは全然違うんだろうけどさ。
博物館は、
アウシュビッツ1
と
アウシュビッツ2(ビルケナウ)
の一部。
それでも1から2に行くには、シャトルバスかタクシー、または徒歩で20分だって書いてある。
私は、勝手に想像してた感じだと、大きな学校程度…大学とか、そのくらいの敷地かなって思ってたんだぁ。
ずーっと、ずーっと広いのね。
全体は、3つの村にまたがる広大なものだった。
実際に行ったら、すごーいんだろうな。景色も、空気も。
いつか行ってみたい。ここと、アンネの隠れ家は行ってみたいね。
最初に。
忘れちゃいけないのは、日本だって、アメリカだって、戦争中は規模の違いこそあれ、同じことをやっていたんだってこと。例をあげたらキリがない。
今も…。
これを読んでくれてる人へ。
読んだらきっと、「ナチスめ!」「ドイツめ!」って思うだろうけど、それをまあ抜きにしてったらアレだけど、ただ、事実を知るって心構えで読んでくれたらなって思う。
紹介したい文章がたくさんあったので、引用しながら書いていきます。
あ、その前に、ポーランドという国について、なぜ「アウシュビッツ」や他の強制(絶滅)収容所がポーランドに多く建設されたのか、ということについて、簡単に。
私も詳しくは説明できないから、簡単に、そして、うろおぼえ(笑)
ポーランドは、昔から、その領地を他の国に取られたり、取り返して独立したりって感じだった。
ドイツとソ連の間に位置していて、第二次大戦が始まる前、ドイツとソ連で勝手にポーランドの領土を半分ずっこしようぜ、と秘密の約束を交わしていた。
ひどいねーなんでもアリだね!
で、ドイツがポーランドに侵攻することで、大戦が勃発。
アウシュビッツは、最初、ナチスに反抗する、ポーランドの政治犯を一時的に収容する施設だったの。
市街地から遠く、広大な敷地があって、世界の目も届きにくく、鉄道も通ってて、通信網もできあがっている場所だったから選ばれたらしい。
それが、どんどん拡大してって、「ユダヤ人」も連れてきてそこで絶滅させちまおうって話になったわけ。
「ユダヤ人」だけではなかったというのも私には新しい事実。
ほかには、「ジプシー」と呼ばれた人たちや、ソ連の捕虜など。
確かに「ユダヤ人」が大多数だったんだけどねぇ。
その陰で、見過ごされた人々もあわれでならない。
「戦争捕虜は保護する」って条約もあったのに、無視してほとんど抹殺さ。なんでもアリだねぇ。
引用しまーす
第1部
博物館について。
「(ドイツ人の)生徒たちがここへ見学にくる目的はなんですか?」
「まず、歴史の事実を知ること。それから、ここで学んだ教訓が、現在や将来のいろいろな問題を考え、解決するときに、一つの判断材料となってくれることを期待しています」
若者がここを訪れることは、本当に意義のあることだと思う。
ドイツが戦後、被害国との対話を積極的に続けてきたことは評価されるべきであろう。
(中略)日本はアジア諸国との歴史を真摯に見直してきただろうか。
日本をドイツにたとえると…
ナチスの継承者が、いまも政治してるのと同じだもんなぁ!
こうして書くと、ありえないことみたいでしょ。でも、実際、日本の政治はそうなんだもん。
西ドイツ大統領;ヴァイツゼッカーの言葉
「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在についても盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険におちいりやすい」
まったくその通りだ。
アベ総理に聞かしてやりたいよ。
このような歴史を二度と繰り返してはいけないという、犠牲者たちの願いで残されたアウシュヴィッツは、この地の体験を自らの貴重な教訓ととらえる次世代の一人ひとりによって守られている。
第2部
は、博物館所蔵の写真がたくさん。
当時の写真がいっぱい。
中には、仕事をさせられていた収容者がかくれて撮った写真もある。
まさに命がけだよね。
どうやって、カメラやフィルムを調達したのか、もわかっていない。
空き缶に入れて、地中に埋めたのが後年発見された。
今も、探したらもっと見つかるんじゃないかって話だよ。
第3部
いよいよ博物館の中へ。
順路にそって、著者がいつもしているように順番に説明してくれる。
ここでは、また、引用しながらいきます。
収容者が強制労働に出かけるときに毎日通るアウシュヴィッツの正面入口の上には、皮肉な文字が掲げられています。有名な「ARBEIT MACHT FREI」(労働は自由への道)です。ところが彼らは、自由になるどころか(中略)死ぬまで働かされたのでした。
「有名な」ごめん知らなかった。
皮肉なのか、収容者に希望を持たせてこき使うためなのか。
おそらく両方だろうな。あとはカモフラージュとかね。
次。
クレマトリウム(=火葬場)という名の、ガス室と死体を焼く焼却炉(日本でも見られる葬式んときの焼き場の釜と同じような感じ)で構成された建物がある。
最終的には第5まで作られた。
ナチスは負けるってわかったときに、これに放火して、証拠隠滅をはかった。
でも、こんだけのことをしておいて、全部かくすことなんでできっこないのさ。
「選別」で労働力にならないと判断された人は、この建物に送られる。
「今からシャワーを浴びろ」と命令されて地下へ誘導された人々は、木製のハンガーと椅子が並べられた部屋で服を脱ぎます。通路には「消毒室へ」と書かれた看板が、ドイツ語だけでなく、連行されてきた人々の母語で表示されています。そしてここでは「自分の掛けた服が、後で戻ってきたときにわかるようにハンガーの番号を覚えておけ」と言われます。地下の中央には天井にシャワーの蛇口のようなものが取り付けられてありました。でも、そこからお湯が出ることはなく、ガスマスクをかぶったSS衛生兵がチクロンBを投下したのです。二十分足らずの間に、多いときで数百人が窒息死しました。小窓から死亡を確認し、ガスを換気装置で外部へ排出すると、ユダヤ民特命労働隊が入ってきて、死体を昇降機で一階へ運びます。そして犠牲者が身につけていた宝石類や金歯、女性の長い髪の毛など、使えそうなものはすべて抜き取り、剥ぎ取ったあと、死体は一階中央にあった焼却炉で焼かれました。
死体を処理するのも、同じ収容者。
でも、やらないって言えば殺されるんだから、やらなきゃしょうがないでしょ。
ナチスの現場の兵士たち、最初は怖かったかもしれないけど、そのうち、ゲームみたいにおもしろくなってきちゃったんだろうなって想像する。
小窓から見てるのとか、楽しかったに違いない。おもしろいように死んで行くんだもん。
そんな中にあっては、みんなおかしくなる、ってゆうのが想像できる、って言ってるだけだよ。
「チクロンB」というのはもともと殺虫剤だった。
それを作ってるドイツの会社から大量に買ってた。
宝石や金歯を持ってったのは知ってたけど、髪の毛は知らなかったよ。
髪の毛で織った布もあるのね。「チクロンB」の反応がでていたそうな。
強制収容所の「強制」という言葉は、なかなか理解しづらいことばです。労働収容所や捕虜収容所などもナチス・ドイツは作っていましたが、絶滅収容所と呼ばれた強制収容所の死亡率はそのなかでも極めて高いものでした。アウシュヴィッツから生還できた人は全体の10%程度にすぎません。
これが、「殺人工場」と呼ばれるゆえんなのね。
次、生体実験のこと。
不妊化実験
これ、ほんとイヤだわ。
それでも、ほとんどがそのあと殺されてるから、妊娠できなくなっても、生還した人はそれだけでありがたいのね。
双生児を使った実験(実験後、同時に殺して反応を見たり、内臓を調べたり)
子供を、実験に使うなんて…
あと、病気を発症させて薬がきくかどうかの実験。
ドイツの薬品会社が依頼してやっていた。女性収容者を「購入」して。
薬品会社から収容所あての文書
「150人の女性収容者が届き、状態はよかったが、実験中に死んでしまったので結果が出ていない。同数の女性収容者を同じ値段で再度、ご手配願いたい」
これ、読んだとき、「うわぁ…」って思った。
これらの医師たちに収容者の運命を哀れむ気持ちなどまったくなかったのです。
「うわぁ…」って言ったあとだけど、これには異を唱えたい。
きっと「やる」って言わなきゃ殺される場面で…国全体がそんな雰囲気になってる中で、さまざまな葛藤があったに違いないんだ。
でも、これも、始めちゃったら、どんどん「人間」の心を忘れてしまったに違いないんだ。
そんなような文書を読んだことがあるから。
純粋に、実験して、成果をあげれることは嬉しいし楽しいこと。
実験中に被験者が死んでしまっても何も言われない状況は、代わりはなんぼでもいる状況は、ありがたかっただろうね。
別に奨励してるわけじゃないよ。
その中にあっては、そうなっちゃうのさぁ。
妊娠がわかった女性収容者は、収容者病院でフェノール注射をうたれて殺されました。妊娠後期になっていた場合は医師の実験・研究材料として胎児が摘出されました。出産に至った場合は生まれたばかりの赤ん坊は毒殺されるか、水の入ったバケツの中で溺死させられました。
最後にこれ。
ここ打ちながら涙出てきたー。
母になってからここ読むと、やるせないね…。
***
またまとまらなかったけど、
読んでくれたみんなに、何か伝わることがあればいいなって思う。