正論 新型肺炎、憲法レベルで論議を 駒沢大学名誉教授・西修(産経ニュース 2020.2.19)
西修教授の指摘によると、GHQは憲法に明示されていなくても行政府にはエマージェンシー・パワー(緊急権)が認められるので、国会が召集できない場合の緊急措置条項を拒否したのだそうです。エマージェンシー・パワーとは緊急事態が発生すれば、行政府は既存の法に反しない限り、必要なあらゆる措置を講じることができるという英米法に基礎を置く考え方なのだそうですが、明治憲法以来の日本の法体系とは異なっており、戦後の日本ではエマージェンシー・パワーに基づく政策は採ってこなかったことは明白だろうと思います。この辺が日本の危機管理政策・安全保障政策の本質的な問題のように見えます。
今回の新型コロナウイルスの一件でも法務省は人権を盾に特定地域への滞在を理由にした一連の入国拒否をしたようです(政府、水際対策で異例の措置 入国拒否、厳格化要求も―新型肺炎 時事 2020年02月13日)。アメリカは日本を英米法のように何となく思っているかもしれませんが、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正によって成立しており、日本は今でも明治以来の大陸法の国な訳です。つまりは緊急時には法に反しない限り何でも出来るとならず、一々出来ることは書かれていないとならない訳です。大陸法と英米法の優劣を論じてもしょうがなく、これまで明治以来の積み重ねた大陸法のルールの下、最善を尽くすにはやはり緊急時と言えども出来ることは書いておく必要があります。>根拠としたのが出入国管理法5条1項14号だ。5条1項は外国人の入国を拒否できるケースを列挙し、14号は「日本国の利益または公安を害する行為を行う恐れがある」場合を規定する。本来はテロリストなどへの対応を想定したもので、感染症が疑われる外国人への適用はいわば「禁じ手」(政府関係者)だ。・・・そうでなくては禁じ手解釈を政府は一々しなければならなくなるんですね。筆者は禁じ手解釈をしてでも必要な措置をとった安倍政権の判断は寧ろ妥当なものだと思いますが、こと日本においては緊急時に何が出来るか議論しておくことも必要なことであり、これまでなされていなかったことは明白だろうと思います。この議論を促すのに緊急事態条項の条文を設けることは極めて有効に違いありません。英米法風味の大陸法憲法をそのままにしておけば、同種の問題が何遍でも起こるに違いありません(筆者は保守派であって革命を志向しないので、大陸法から英米法に変えろと主張しません)。
9条自衛隊の問題も同じように思われ、自衛隊明記論は自衛隊を明記するだけでなく、緊急権がない日本国憲法下で自衛隊の危機管理体制を高める効果があると考えます。自衛隊はダイヤモンドプリンセス号での活動で厚労省に準じた活動を行ったようですが、日本の法体系で緊急時に何でもの発想で自衛隊が活動するのは難しく、平時からこういう時はこうと準備訓練しておく必要があるんじゃないでしょうか?もしその体制が整っていれば、厚労省に沿ったレギュレーションでの自衛隊の活動を見ることなく、ダイヤモンドプリンセス号で帽子を被った自衛隊員や防護服を着た自衛隊員の写真を見ることが出来たかもしれません。自衛隊が明記されることは憲法上の規定に沿った自衛隊を最大限認めることになり、警察の延長線上にある自衛隊から自立的に活動できる自衛隊へ脱皮への第一歩なのかもしれません。少なくとも現状のままでは緊急時でも自衛隊は書いてないことをするのに制約があることは明白ではないでしょうか?緊急事態条項で明らかになったように、明治以来の日本では書いていないことをやるのに制約がある訳ですから、法に反しない限り、必要なことは何でも出来る組織に自衛隊をしていくためには、最低限憲法上認められた組織にする必要があると思えます。そうでない場合は、禁じ手解釈をするしかなく、無理な解釈であれば、訴訟で日本の安全保障政策が低レベルであってほしい日本に敵対的な勢力に訴訟で負ける可能性が十分あると思えます。
GHQがこのような問題に気付いていたと思えず、何となく大日本帝国憲法の形を残したまま、英米法の考え方を持ち込んだに違いありません。これをそのままにしていたのは戦後日本政治の蹉跌でしたが、そもそも話し合わないという戦法を取るのは野党であっても与党であっても許されないというのも強調しておかねばならないことです。これは法に反しない限り何をやってもいいという英米法風味の戦術かもしれませんが、国民の多くが望んでいない不当な戦術に違いなく、憲法議論を国民が判断するという正常なプロセスが機能していないことは明白です。憲法問題は議会で議論して国民が判断すればいいだけの話で、国民の少数にしか支持されていない野党が国民の多数に支持されている政権下での議論を拒否すること等、本来的に出来ようはずもありません。あれが単なる日本に対する重箱嫌がらせ戦術以外の何だというのでしょうか?法治国家で民主主義国家である日本において、憲法問題・法の問題で最大の問題は野党の審議拒否カードの濫用問題だと確信しています。拉致問題なんかも北朝鮮が天国のような呆けた空気に対する異論がまともに議論されていれば、もっと早くに対処できたはずです。日本人の悪癖は議論しない戦術で臭いものに蓋をする癖があることなのでしょう。ただ裏を返せば議論しなくていい問題を議論する悪癖があるとも言えるのかもしれません。例えば、法的に問題がない問題を延々と議論して政権の印象操作をしようとする野党がいます。これらに効く薬が素直にやるべきことをやるという当たり前のことなのかもしれません。政界はとにかくひねくれ過ぎているようであり、やることが酷過ぎます。
西修教授の指摘によると、GHQは憲法に明示されていなくても行政府にはエマージェンシー・パワー(緊急権)が認められるので、国会が召集できない場合の緊急措置条項を拒否したのだそうです。エマージェンシー・パワーとは緊急事態が発生すれば、行政府は既存の法に反しない限り、必要なあらゆる措置を講じることができるという英米法に基礎を置く考え方なのだそうですが、明治憲法以来の日本の法体系とは異なっており、戦後の日本ではエマージェンシー・パワーに基づく政策は採ってこなかったことは明白だろうと思います。この辺が日本の危機管理政策・安全保障政策の本質的な問題のように見えます。
今回の新型コロナウイルスの一件でも法務省は人権を盾に特定地域への滞在を理由にした一連の入国拒否をしたようです(政府、水際対策で異例の措置 入国拒否、厳格化要求も―新型肺炎 時事 2020年02月13日)。アメリカは日本を英米法のように何となく思っているかもしれませんが、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正によって成立しており、日本は今でも明治以来の大陸法の国な訳です。つまりは緊急時には法に反しない限り何でも出来るとならず、一々出来ることは書かれていないとならない訳です。大陸法と英米法の優劣を論じてもしょうがなく、これまで明治以来の積み重ねた大陸法のルールの下、最善を尽くすにはやはり緊急時と言えども出来ることは書いておく必要があります。>根拠としたのが出入国管理法5条1項14号だ。5条1項は外国人の入国を拒否できるケースを列挙し、14号は「日本国の利益または公安を害する行為を行う恐れがある」場合を規定する。本来はテロリストなどへの対応を想定したもので、感染症が疑われる外国人への適用はいわば「禁じ手」(政府関係者)だ。・・・そうでなくては禁じ手解釈を政府は一々しなければならなくなるんですね。筆者は禁じ手解釈をしてでも必要な措置をとった安倍政権の判断は寧ろ妥当なものだと思いますが、こと日本においては緊急時に何が出来るか議論しておくことも必要なことであり、これまでなされていなかったことは明白だろうと思います。この議論を促すのに緊急事態条項の条文を設けることは極めて有効に違いありません。英米法風味の大陸法憲法をそのままにしておけば、同種の問題が何遍でも起こるに違いありません(筆者は保守派であって革命を志向しないので、大陸法から英米法に変えろと主張しません)。
9条自衛隊の問題も同じように思われ、自衛隊明記論は自衛隊を明記するだけでなく、緊急権がない日本国憲法下で自衛隊の危機管理体制を高める効果があると考えます。自衛隊はダイヤモンドプリンセス号での活動で厚労省に準じた活動を行ったようですが、日本の法体系で緊急時に何でもの発想で自衛隊が活動するのは難しく、平時からこういう時はこうと準備訓練しておく必要があるんじゃないでしょうか?もしその体制が整っていれば、厚労省に沿ったレギュレーションでの自衛隊の活動を見ることなく、ダイヤモンドプリンセス号で帽子を被った自衛隊員や防護服を着た自衛隊員の写真を見ることが出来たかもしれません。自衛隊が明記されることは憲法上の規定に沿った自衛隊を最大限認めることになり、警察の延長線上にある自衛隊から自立的に活動できる自衛隊へ脱皮への第一歩なのかもしれません。少なくとも現状のままでは緊急時でも自衛隊は書いてないことをするのに制約があることは明白ではないでしょうか?緊急事態条項で明らかになったように、明治以来の日本では書いていないことをやるのに制約がある訳ですから、法に反しない限り、必要なことは何でも出来る組織に自衛隊をしていくためには、最低限憲法上認められた組織にする必要があると思えます。そうでない場合は、禁じ手解釈をするしかなく、無理な解釈であれば、訴訟で日本の安全保障政策が低レベルであってほしい日本に敵対的な勢力に訴訟で負ける可能性が十分あると思えます。
GHQがこのような問題に気付いていたと思えず、何となく大日本帝国憲法の形を残したまま、英米法の考え方を持ち込んだに違いありません。これをそのままにしていたのは戦後日本政治の蹉跌でしたが、そもそも話し合わないという戦法を取るのは野党であっても与党であっても許されないというのも強調しておかねばならないことです。これは法に反しない限り何をやってもいいという英米法風味の戦術かもしれませんが、国民の多くが望んでいない不当な戦術に違いなく、憲法議論を国民が判断するという正常なプロセスが機能していないことは明白です。憲法問題は議会で議論して国民が判断すればいいだけの話で、国民の少数にしか支持されていない野党が国民の多数に支持されている政権下での議論を拒否すること等、本来的に出来ようはずもありません。あれが単なる日本に対する重箱嫌がらせ戦術以外の何だというのでしょうか?法治国家で民主主義国家である日本において、憲法問題・法の問題で最大の問題は野党の審議拒否カードの濫用問題だと確信しています。拉致問題なんかも北朝鮮が天国のような呆けた空気に対する異論がまともに議論されていれば、もっと早くに対処できたはずです。日本人の悪癖は議論しない戦術で臭いものに蓋をする癖があることなのでしょう。ただ裏を返せば議論しなくていい問題を議論する悪癖があるとも言えるのかもしれません。例えば、法的に問題がない問題を延々と議論して政権の印象操作をしようとする野党がいます。これらに効く薬が素直にやるべきことをやるという当たり前のことなのかもしれません。政界はとにかくひねくれ過ぎているようであり、やることが酷過ぎます。