ワニなつノート

「そこ」に行ったら、いまの「自分」になれただろうか


《自分が「そこ」に行ったら、いまの「自分」になれただろうか?》


学校の先生や親たちは、「子どもに一番いいところ」と言って、
特別支援教育に子どもを送り込むけれど、
自分が「そこ」に行ったら、いまの「自分」になれただろうかと、
考えたことが一度でもあるだろうか?


私はずっとそのことを、考えてきました。

8歳のときに、「ここ」と「そこ」の境界に立ち、
50年の人生で一番怖かった時間をくぐりぬけてから、
私はずっと、そのことを考えてきました。

もし、私があのとき、その線を越えていたら…。
わたしは、いま、ここに、いるだろうか?

答えは、いつも同じでした。

「いまのわたしは、ここにはいない」

それ以外の答えを感じたことも、見つけたこともありません。

私には、いまの特別支援教育の言葉は、
こんなふうに聞こえます。
「向こうに行って、専門家の指導を受けていれば、
あなたの人生はもっと素晴らしいものになったのに。
あなたにとって一番いい人生は、向こう側にあったんですよ。
残念でしたね。
普通学級で放っておかれて。
もっと、能力が伸びたかもしれないのに。
もっと、社会性がついたかもしれないのに」

その言葉は、もしかしたら間違いではないのかもしれません。
違う環境だったら、私の能力はもっと伸びたかもしれません。

もっと「社会性」がついたかもしれません。
情緒障害児学級に勤めても、施設に勤めても、
そこでの子どもの扱いにがまんできず、
仕事をやめてしまうこともなかったかもしれません。
教育委員会のガラスをたたき割るような
反社会的な行動もしなかったことでしょう。


でも、このまま未熟なままで人生が終わろうと、
わたしは、ここにいたかったのです。

やっぱり、私は「教育」の話なんて
一つもしていないのかもしれません。

明日は、今年3回目の「就学相談会」です。

コメント一覧

ありんこ
娘の通う学校には特支学級もあるのですが
同じ学校にありながら、いつも通常学級の子供たちとの距離を感じてしまう毎日です。

娘を迎えに行く時間にいつも保護者との引渡し(下校)をしています。
それも混雑を避ける為、保護者と今日の様子をゆっくり伝えられるようになのでしょうが
私はその様子を見ていると堪らなくなります。
特支学級の子供たちへの配慮なのかもしれませんが
私は嫌で溜まりません。

私は特支学級の子供たちにも声をかけるようにしているのですが
先日、5年生の男の子が娘のことを特別視しているんです。きっと「お前(の子)は俺のクラスの友達じゃないだろ!」と思っているのだなと受け取れました。
やっぱり見えない壁があるのだなと思いました。

学校という教育現場のお話で、教育と絡めて話すことになるので
いつの間にか話が刷りかえられてしまいますが
これは教育以前のお話ですよね。
ishizaki
毎年、千葉県の特別支援教育研究連盟+特別支援級設置校長会が「ふれあいカレンダー」を頒布します
「共に喜び、共に歩もう明日をめざして」というスローガンのもと。
特別支援教育に理解を得るために、カレンダーを売るしかないなんて・・・ちっとも理解されてないじゃん!!
と、毎年このプリントが配られると、嫌~な気持ちになります。

特別支援教育を子どもに受けさせたい、それが、子どものためなんだから。と考えてしまうのは、やっぱり、子どもを自分とは違い、障害があるから…というのが親の潜在意識なんだなと思います。
私が中学生のころ受験戦争真っ盛りで、いくつかの私立高校には選抜クラスというのがあり、入試でその選抜クラス受験で受かれば授業料が無料(とっても安く)になり、そのクラスだけ受験カリキュラムで特別に有名大学合格のための勉強をする、というものでした。

私はいくら授業料がタダでも、そんなクラスには行きたくなかったし、有名大学に合格させてくれるといっても、親達も全く興味は示さなかったです。
やっぱり、みんなと違うカリキュラムで高校生活を送るのは、つまらないし、意味がない、→ 行きたくない!というのが普通の感想なんだと思います。

けれど、同じような仕組みの特別支援教育には、疑問を感じない大人が多いです。
障害があると、自分(親)のような人生を送るのは難しいし、出来ないから、私とは違う障害者としての将来の為に、特別な学校生活を用意してあげなくてはいけないんだっ――。と思ってしまうのはなぜ???

日々成り行きで過ごしている私ですが、たまには、いろいろ考えてみようかなと思うこの頃です。
ai
やっぱり毎日ここに来よう。

向こう側からも
弾き飛ばされているので。
アハハハ・・・


hiro
冬があり夏があり

昼と夜があり

晴れた日と雨の日があって

ひとつの花が咲くように

悲しみも苦しみもあって

私が私になってゆく 【星野富弘】


私(ちひろ)が私であるためには、
私が私になるためには、
私の人生は私自身の中に
求めるしかないのだと思います。

向こう側にある人生は、脇役の人生、
私が私になりきれない人生のように思います。

相談会、たくさんの方がみえますように…


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