(yo)
《ふつうの「子どもの苦労」を取り戻す
→ふつうの「子ども」を取り戻す →人とつながる》
子どもに障害があると、ワニなつ流にいうと
ふつうの「子どもの苦労」を奪われ、
ふつうの「子どもの生活」を奪われてしまうことがあります。
それは「自分の苦労の主人公になる」チャンスを奪われることです。
ただの「子ども」でありながら、
「できない」こと「未熟」であることは、
すべて「障害児」のせいにされ、
「障害はあってはいけない」というまなざしは、
「未熟であってはいけない」という形で子どもを襲います。
ちゃんとしなさい、人に迷惑をかけないで、
自分のことは自分でできるように。
それがあなたの人生の幸せなの。
子どもの側からすれば、「未熟ではいけない」ということは、
「子どもであることがいけない」と感じるしかありません。
自分の人生でありながら、子どものときから、
「親が死んだ後のこと」を度々心配される人生。
「治療」され「療育」され、「特別に支援され」、
「保護される」子ども時代とその後の人生。
特別支援される「一生のスケジュール」を、
学校の先生に話し合われ、決められる人生。
決める? 何を? 子どもの人生を??
「他人の人生のスケジュールを決める」ことに、
なんの畏れも、違和感も感じない人が作る
「支援計画」された人生。
私なら、こうつぶやく。
『それが作られたとき、「わたしの人生」は、終わった』と。
「障害」によっては、不安やこだわり、どうしても気になることと、
学校の言葉や行動様式を共有できる先生や仲間とのあいだに
ギャップが巻き起こり、さまざまな人間関係上の
「摩擦」がおきることもある。
「摩擦」を防ぐもっとも有効な手段は
「人と会わない」ということである。
「学級を変える」「学校を変える」ということである。
「分離教育=特別支援教育」によって、
子どもは人とのつながりからの離脱を余儀なくされ、
さらなる孤立へと陥る。
ある当事者はそのときの心境を
「どんなに嫌われてもいいから、
何をしてでも人とつながることを渇望した状態」と言っている。
私の耳には、小さな女の子の声が聞こえる。
「行ける? だいじょうぶ?」
1年生になった時、遠くの学校に送ってもらう車の中で、
その子は言った。
「どうして、わたしだけ、
お兄ちゃんと別の学校に行かなきゃいけないの?」
それから2年間、女の子は待っていた。
お父さんとお母さんが、「転校」の手段を見つけるのを。
「大丈夫ですよ。転校はできますよ」と、
私が両親に伝えたとき、女の子は初めて顔をあげて聞いた。
「行ける? だいじょうぶ?」
彼女は、自分の身を襲った「特別支援」という人生が
振り払われるのを、2年間じっと待っていたのでしょう。
子どもは親の覚悟を、だまって待つしかありません。
「普通学級での苦労を取り戻す」とは、
「自分の苦労が自分のものになる」という経験であり、
それは自分の人生を取り戻すことにほかならない。
普通の子どもの生活を取り戻してはじめて、
子どもは子どもとつながることができる。
このようにして、「苦労を取り戻す」ことと、
「人とつながる」ことが、同一の出来事として起きてくるのである。
障害のある子どもを一方的に支援という名で分けたり、
保護・管理することは、子どもなら誰もがたどる
「苦労という経験」を奪い去ることを意味する。
言葉がでないこともコミュニケーションが未熟なことも、
日常的な暮らしの心配も、そして「生きることの意味」という
シンプルで深淵な人生課題も、
すべては一人の子どもにとってはかけがえのない経験であり
宝物なのである。
それはいまもむかしも、特殊教育=特別支援教育の世界に
もっとも欠落した部分であり、
その宝物こそ、私たちがいちばん大切にしてきたものなのである。
□ □ □
『技法以前』 向谷地生良 医学書院 (P37)
【苦労を取り戻す→自分を取り戻す→人とつながる】
精神障害をかかえるということは、
浦河流にいうと「自分の苦労の主人公になる」チャンスを
奪われるということである。
つまり、自分の人生でありながら常に他人に心配され、
管理され、保護される暮らしの可能性が高まるのである。
特に統合失調症では、自分の五感から伝わってくる世界と、
周囲の人間の共有している世界とのあいだに
著しいギャップが巻き起こり、
さまざまな人間関係上の摩擦を引き起こす。
摩擦を防ぐもっとも有効な手段は
「人と会わない」ということである。
そのことによって、当事者は人とのつながりからの
離脱を余儀なくされ、さらなる孤立へと陥る。
ある当事者はそのときの心境を
「どんなに嫌われてもいいから、何をしてでも
人とつながることを渇望した状態」と言っている。
このようにしてできてしまった自分と周囲のあいだの溝を破壊し、
人とのつながりという命綱を確保する緊急避難的な自己対処として、
彼らは爆発という手段に頼らざるを得なくなっていく。
しかし爆発行為はさらなる周囲の管理と保護を強め、
他者の管理と支配に身を委ねる生活へと当事者を貶めていく。
それに対して「自分の苦労を取り戻す」とは、
「自分の苦労が自分のものになる」という経験であり、
それは自分の人生を取り戻すことにほかならない。
自分を取り戻してはじめて、人とつながることができる。
このようにして、「苦労を取り戻す」ことと、
「人とつながる」ことが、同一の出来事として起きてくるのである。
爆発に陥った当事者を一方的に支配したり、
保護・管理することは、人間誰しもがかかえながら生きている
「苦労という経験」を奪い去ることを意味する。
幻覚も妄想も、日常的な暮らしの心配も、
そして「生きることの意味」というシンプルで深淵な人生課題も、
すべては一人の人間にとってはかけがえのない経験であり
宝物なのである。
それはいまもむかしも、精神医療の世界に
もっとも欠落した部分であり、
浦河での30年間の歩みのなかで、
私たちがいちばん大切にしてきたものなのである。
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