自分の「呪い」を解くための100のメモ(55)
《「つながりの声をきく」と「居るをきく」、そして「ここに居てはいけない」とは言わない》
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「一人の声」をきこうとして聴こえないもの。
「一人の言葉」をみようとして見えないもの。
そこに「つながりの声」があり、「居るをきく」がある。
「ここに居てはいけない」と言われない場所が、もっとも安全な場所であったのは、そこがつながりの声のあふれる場所であり、「居るを聴き合う」場所であったから。
わたしたちの保育園とふつう学級はそういう世界だった。
そこには「声」にならない思いを聴き、「言葉」にならない思いに耳を傾ける、そんなつながりの領域があった。
言葉のある子と言葉のない子に分けて、言葉のある子の声だけが聞こえるのではなかった。聞こえていたのは、すべての子が安全に守られて「居る」がきこえる、ひとつながりの声だった。
石牟礼道子さんの「花を奉る」の一節。
「花や何。亡き人を忍ぶよすがを探さんとするに、声に出だせぬ胸底の思いあり。そをとりて花となし、見灯りにせんとや願う。灯らんとして消ゆる言の葉と言えども・・・」
きこえない声をきくこと、きこえない言葉をきくことは、自分の中にある、もっとも深い、「亡き人」への思いをきくためにある。ここに「居ない」人への思いを胸底で愛しむためにある。
他者に「ここに居てはいけない」と伝えれば、自分の中の「声にならない思い、声にだそうとしても形にならない言の葉」もまた居られなくなる。