ようこそ 2020就学相談会へ(その16)
《根源的な学び》
「いること」でみんなの身体が奏で、そして包まれていた音楽。
その「学び」が、ふつう学級での「根源的な学び」の一つだった。
新しい音楽を覚えていくときは、曲全体を聞いたうえで、一つひとつ奏でる音を確かめていく。
同じように、みんなの中での安心や自己調整の感覚も、全体の流れを視野に入れたうえで、一つひとつ自分の身体になじむ音を確かめていく。
クラスという全体を見ながら、「たくや」や「こうじ」「あさこ」や「まなみ」と名前で呼び合う関係の一つひとつずつを調整しあうこと。
「おともだち」ではなく、一人一人の生きている「名前」が大切だった。
それは、あくまでもプライベートな「語彙」。
「理解」より、共に過ごす時間の「積み重ね」こそが、その子のレジリエンスの元となる。
だから「交流」ではなく、ふつう学級にいること、に意味がある。
「いるだけ」がどれほどすごいことか。「生きて・ここに・いる」だけがどれほどすごいことか。
《自分で学んだものは消えない》
友だちの名前を「読み書き」できることは重要だろうか?
友だちの名前を「声に出せる」ことは重要だろうか?
目が合うだけで、隣にいるだけで、同じ教室にいるだけで、身体にきこえる音もある。
たとえ名前のテストが0点でも、みんなと過ごす授業の中での学びの積み重ねは、身体のなかに、ある。
誰かに教えられたものでなく、自分で学んだものは消えない。
他の誰かには「聞こえない」としても、「私の中に学びはない」とは言わせない。
「どうせ何もわかっていない」とか「わからない授業はかわいそう」という人がいる。
他者の「わかり方」を、どうしたら「わかる」と言えるだろう?
「授業の内容」と同時に、「授業という生活」のなかで、「自分の感覚」に気づく学びがある。
その積み重ねは、この世界で自分の「身の置き方」「身の置き所」を、自分で定める学びにつながっている。
それは、私の「人生を決める人」と、私の「人生に向き合う人」を、見分ける賢さの学びでもある。
《名前を忘れてもなくならないもの》
たとえ長い年月の後、一人一人の「名前」を忘れたとしても、私の身体に流れる音楽はなくならない。
みんながそこに「いるだけ」で、誰もが「聞いていた音楽」。
(「いるだけでいいのか?」という言葉をぶつけることが、「攻撃になる」と信じている人がいる。たぶんその人は、自分の中の協働調整の「音楽」を聴いたことがないのかもしれない。)
障害があるとかないとかに関係なく、みんなが同じ音楽を聴いているからこそ、60年後、80年後の「クラス会」で、一瞬で「子供の時の声」「話し方」「同じ音楽」が聞こえることが珍しくないのだろう。
その時その場で生きた同志にしか聞こえない「音楽」があり、それはいつも身体の中にあり、私たちの人生を支えている。
(んーーー。まだうまく書けないなぁ)(;´・ω・)
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