前回のやっちゃんの話を久しぶりに読みかえしました。
改めて読み直すと、当時とは違うものを感じます。
それは、「たいへ~~ん」と
感じるものの方向?(対象)のようです。
リアルタイムでの話のときは、
どうしても「やっちゃん」=「大変な子ども」の方に、
多くの「たいへんだね」が向いてしまいます。
その「大変な子の親」の大変さという視点もあるにはあるのですが、
やはり目の前で泣き叫んでいるやっちゃんを見ていると、
「こいつ、本当にうるさいなー」とか
「ああ、めんどくさ!」と、私自身が思うこともあって、
「大変さ」の元は、「やっちゃん」だという実感がありました。
でも、学年が上がるにつれ、だんだんやっちゃんが落ち着き、
「さとうさん、さようなら」とか、
ちゃんとあいさつされるようになった今、これを読み返すと、
改めて別の意味で「大変だったねー」が感じられてきます。
やっちゃんママの大変さは、
実は「面倒なクソガキやっちくん」にあったのではなく、
その大変さのほとんどは、
「学校、先生、他の保護者」への「気兼ねや遠慮」であったり、
子どもに障害があるということで、ふつうに「対等な親同士」の話に
ならない(なれない)、状況や、自分への苛立ち…、
情けないという気持ち…、そしてそれらすべてを、
子どもに申し訳ないと思う気持ち…、
そんな、「当たり前」でない「立場」の大変さ、
苦しさとして感じられてきます。
今まで、ふつう学級は、「障害のあるふつうの子ども」の、
「ふつう」を育てる場所と言ってきました。
でも、これを読んで、もうひとつの「ふつう」に気づきました。
それは、「障害のあるふつうの子」の「ふつうの親」であることもまた、
ふつう学級で過ごす年月のあれやこれやの中で、
もまれ育まれていくものらしい、ということです。
「障害のないふつうの子ども」の親だからといって、
子どもが生まれてすぐに「小学生の親」や「中学生の親」に
なれるわけではないのです。
どの親も、子どもが小学生になって初めて
「小学生の子どもの親」になり、
子どもが中学生になってはじめて
「中学生の子どもの親」になれるのです。
言葉にしてみると、当たり前のことです。
「赤ちゃんが生まれるとき、お母さんもいっしょに生まれる」
という言い方もあります。
そう、いつだって、親の先に、「子ども」がいるのでした。
だから、親は子どもの後ろをついていくしかないのです。
そして、「ふつうの親」が育たないと、子どもが中3になって、
「こうこういく」と口にしたときに、
「うん、がんばろうね」と、ふつうに返事を返すことはできません。
「0点でも高校へ」と堂々と言ってあげることはできません。
Naoちゃんママも、やっちゃんママも、
子どもを「ふつう学級」に通わせることで、
子どもに「ふつうの子ども時代」「ふつうの子どもであること」
「ふつうの子どもの成長」を守ってきたと同時に、
自分がふつうの子の親であること、も守り抜いてきたのでした。
(つづく)
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やすハハ
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