ワニなつノート

要望書のこと

i さん、コメントありがとうございます。
要望書の提出と、○くんの中学入学と、
いいタイミングで、コメントをいただいて、
自分が何をしているのか、改めて気づきます。

要望書の「回答」について、
私が思っていることを書きますね。

あんな要望書を出しておいて、こんなことを言うのも何ですが、
私は「返事」を、あまり「期待」していないのです。

だって、相手は「マスコミ」ですよ。
マスコミは、昔から一市民の意見なんて相手にしないものでしょ。

私はマスコミをそう理解してきました。

例外はあります。
だから、もしこの要望書に目をとめて、
返事を書ける人がいたら「楽しみ」だなとは思います。

でもねぇ、私は、私の出会ってきた子どもたちに関する、
いかなる評価も判断も、新聞社なんかに委ねるつもりなど、
これっぽっちもありません。


それに、aiさんが心配するような「学校の悪い対応」が、
「朝日の社説」のせいだなどということも
ないだろうと思っているのです。
毎日ノルマのように書かれている社説に、そんな力はありません。
もともと、差別的な人が、都合よく新聞記事を
持ち出すことはあるでしょうが、それだけのことです。
「子どもの虐待」の記事をちゃんと読む先生が
そんなにいるとも、私には思えません。

では、なぜ、わざわざ要望書を書いたのか。
それは、相手方の問題ではなく、
私自身のため、私たちが子どもたちといっしょに
築いている豊かさを、きちんと確認しておくため、
という感じでしょうか。

「新聞」とか「校長」「教育委員会」いうと、
何か力があるもの、正しいもののように、
私たちは思いこまされているところがありますが、
そんなことはまったくないのです。

私たちは、「壁」を勝手に大きくしてしまいがちです。
でも、「新聞」とか「校長」「教育委員会」
「文部科学省」といっても、
ただの一人ひとりの人間でしかありません。

障害のある子どもと出会ったこともない人たち。
「定員内不合格」も知らないで、
《高校就学支援ホットライン》の担当者になる
おじさん、でしかありません。

そんな経験不足、知識不足な人たちを、
肩書きや立場だけで「大きく」してしまわないように。
小さな石につまづいただけなのに、
そびえ立つ壁のように思いこまないように。

朝日新聞の回答よりも、土本さんの言葉を
なんどもかみしめる方が、
よほど、私たちは豊かなものを手に入れることができます。


    □    □    □


障がい者制度改革推進会議  

第5回(H22.3.19) 資料



《教育に関する意見》



【土本委員】


自分も小学校3年までは ふつう学級にいっていたのですが
ついていけれないと あとで きかされました。

自分が しょうがっこう4ねん に なったとき なんの せつめい もなく
きょうから こっち といわれ わかれた たてものに いかされた。

わけが わからないまま いかされた。

ちがう ばしょで まなぶことをしてきて、
べんきょう いがいに たいりょくを つける こともした。

そつぎょう したら しゅうろう するのが あたりまえと おもってきた。

むかしは ちてきは おいて いかれていた。
きょういくは しなくても いいとまで いわれた。
めんどう みきれない という ことも あった。

ぎむきょういくが おわると
いまは 自分たちの なかまたちの おおくは
こうとう ようごがっこうに いきます。

とおい ようごがっこう に いくと
きしゅくしゃに はいることが おおいです。

きしゅくしゃは 入所施設に はいる前の
じゅんびに つながるのではないかと おもいます。

自分たちが いきたい学校が あったときは
そこに いくことにする。

だんさがあったら なおして いくべきです。

だんさがあるから あっちにいけ ということは してはいけない。

にんち、にんしき、ひょうげん、
コミュニケーションが むずかしいなかまたちに たいしても
はいりょして えらんだ ところに いけるように
ちゃんと 支援をつけるべきです。

しょうがいが あろうが なかろうが かんけいなく
きょういくは いっしょに うけられるように していくべきです。

しょうがいがあると いわれて
ちがうところへ いかされるのではなく、
どんなことで むずかしいのかを
ゆっくりとしたことで やっていくことです。

とうじの とくしゅがっきゅうの先生から
「かくまっているから、ちがうとことにある」
ときいたことがありました。

そのときには、よく わからなかったのですが
いまは「どうして かくまって かくそうと するのか」と
いえるけれど
小学校や中学校では、かんがえられなかったです。

いっしょに べんきょうや あそぶことも
しょうがいが あろうが なかろうが
いっしょに やっていく ことです。


おたがいのことを しっていくこと
それも きょういく ではないですか。


べんきょうも そのほかも ついて いけないから
おいていくのは さべつ につながる。


学校も おっつけないから きりすてしていくのじゃなく
ともにまなぶことも していくべきです。


きょういく も ちいきでくらす ことにも
ごうりてきはいりょ して
わかりやすい じょうほうを つたえることを していくことです。

まなぶことも いっしょに やっていく けんりがある。

どんなに こんなんを かかえていても
ちいき で いきる けんりが ある。


むずかしいから せつびがない ひとがいないから といって
きりすてられてきたし いまも きりすて られつづけている。


わけられたら りかいも されない。


どんな こんなんを かかえていても いっしょに
けいけんやたっせいかん を もちたい。

学校や ふくしサービスも のぞんだものは なかった。
あっちにいけ こっちにいけと きめられ つづけている。

差別をして はいじょ するのではなく
ともに やっていく ことじゃないかと おもいます。

べんきょうは おしつけじゃなく
もっと いきいき のびのび
ゆうゆうとした もので あるべきです。

また 学校のときに てちょう の ことや ねんきんのこと
どんな ふくしサービスが あるかを
こどものころから おしえて ほしい。

きょういく にしろ
しゅうろう にしろ
ふくし にしろ
人との かんけいや つきあいかた。

こまった ときに どこに そうだん したら いいのか。
こんなんを かかえている ことを しって、
こまったときに そうだんする人をみつけて いくことを
学校のときに おしえて ほしい。


学校を そつぎょう したら それで おわるのではなく、
つぎに つながることを して ほしい。


そつぎょうご
自分たちは こりつ してしまう こともある。


うったえようにも うったえきれない という ところが
こんなんをかかえている。

こりつして わるい ことを してしまう こともある。
学校で おや いがいの くらし や なかまたちが
ちいきで どうくらしているのか を しる けいけん
たいけんを もっと してほしい。

いきなりは むずかしいし どんな ことなのか
そうぞう することがむずかしい。

学校じだい に 自分のことをしり
しゃかい に でた ときに こまならないように
じょうほう や たいけん できる とりくみを してほしい。


卒業の べんきょう より
そつぎょう してから どう いきるか
えらんで きめられる ように して ほしい。

【さいごに】

がっこうで おおくの 仲間たちが 「いじめ」に あっています。
だれにも そうだんできなくて なやみ くるしんで います。
「自殺」する 仲間もいます。

仲間たちのおおくは、自分から「たすけて!」といえません。

先生は もっともっと 仲間たちの
こえなきこえに きづいてほしい。

しょうがいを りゆうにした「いじめ」を
ぜったいに ゆるしてはいけない。
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