【安全は心臓で感じる。また、呼吸を通して肺でも感じることができる】(115)
この言葉を読むたび、たっくんやゆうりちゃん、けいちゃんの顔が浮かび、そして「わたしはいきができる」という言葉が浮かびます。それは、「一年生でできるようになったこと」を聞かれた女の子のことばでした。
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女の子は、「てつぼうをながくもてる」「お友だちとパソコンでゲームができる」「字がかける」「はがきがかける」「おふろそうじができる」「たしざんやひきざんができる」お友だちがたくさんできた」といっしょに、「わたしはいきができる」と書きました。
女の子は人工呼吸器を使っていました。「息ができない」から呼吸器を使っているのに、ということもできるでしょう。でも、そんなことは本人も分かっていたはずです。だから、「わたしはいきができる」には、それとは別の意味が込められていたはずです。そのことをずっと考えてきました。
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入学前、女の子は大人たちの言葉を聞いていました。
「何かあったら命にかかわる」
「何かあったら警察が介入してくるかもしれない」
「クラスにゆきみさんがいたら、うちの子があんまり見てもらえないと保護者からクレームがくるかもしれない」という大人の言葉。
「安全」が一つもない学校。どんなに心細かっただろう。どんなに不安だっただろう。呼吸器を使っているということは、6歳になるまでに「安全」でない場面、命の危険も無数にあったということ。それをくぐり抜け、ようやく6歳になった子どもに、もっとも「安全」じゃない言葉をあびせる学校。
「がっこう きたら いけん いうて いいよる」と女の子は泣きました。それでも、いつも話し合いの場に居続けることをやめませんでした。話し合いの場から外されることを承知しませんでした。
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女の子は、入学してからも、親の付き添いを条件にされ、プールにも入れてもらえませんでした。2階への移動も禁止されました。だから、女の子は、図書の時間をひとりで過ごさなければなりませんでした。はじめて2階にあがれた日、女の子は日記に書きました。
「2かいにいったら、ともだちがいませんでした。2かいでまたひとりで本をよむのかとおもいました。そしたら、ともだちがあがってきたから よかったとおもいました」
でも次の週にはまた一人。「わたしも、みんなとあがりたかった」というと、お母さんは「ああ、あがりたかったんじゃね」としか答えられませんでした。女の子は言いました。
「でも、母さん、しかたないんだ」
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女の子の名前はゆきみちゃんといいます。
「がっこう きたら いけん いうて いいよる」と泣いたゆきみちゃんが、一年生の終わりには「わたしはいきができる」と書いたのです。
呼吸器を使っていようがいまいが、「わたしはいきができる」といえる子ども同士のつながりの安全が、そこにはありました。
【安全であるという体験は、じつは内臓の状態を意味する。安全は心臓で感じる。また、呼吸を通して肺でも感じることができる。それはまたつながりの体験である】(115)
そのことを、私が忘れないように、ゆきみちゃんはずっと話しかけていてくれたのだと思います。
ふつう学級とは、子どもたちが、つながりの安全を感じ、そこで「いきができる」ようになる場所なのです。だから、子どもを分けてはいけないのです。
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1《子どもというのは、もともと分けたがっても、分けられたがってもいないのです。》