かさでら観音の本地 ⑤
かつて、花と栄えた滋賀の里でしたが、今は、人々も散り散りとなって、館も朽ち果
てて、親子三人が、侘びしく、嘆きながら月日を送っておりました。ある晩秋の夕暮れ
のことでした。北の方は、その頃、風邪をひいて寝込んでいたので、兄弟の人々は枕元
で看病をしておりましたが、突然に、館が、がたがたと振動し始めると、崩れるばかり
に、家鳴りを始めました。あまりの恐ろしさに、親子兄弟が、倒れ伏していると、また
また、糸竹の亡霊が現れました。
「あら、恨めしやの御台様。これまで、どうにかして、命を奪わんとしましたけれど、
海津の漁師に拾われた菖蒲の前様が、ご継子であるにも関わらず、父母兄弟の為に、法
華経を読誦されるので、諸神諸仏に隔てられて、思うに任せませんでした。しかし、今
日、姫君の願いも満願となりましたので、その暇を見て、ようやくここまで、来ること
ができましたよ。」
と、言うと、糸竹の生首は、御台の枕元に近づき、その途端に、往生の息をふうっと吹
きかけて消え失せました。
すると、北の方の五体は、たちまち腐乱を始めました。御台は、ああ、苦しや、耐え
難いと、のたうち回りました。兄弟は、驚いてうろうろするばかりです。やがて、御台
は、苦しい息の下から、兄弟の手を取ると、
「我は、死霊の恨みが深いので、最早、冥途へ赴くぞ。それにつけても、菖蒲の前が、
海津の浦に生きているという。さぞや、我を恨んでいることであろうが、わらわが、死
んだなら、お前達は、海津の浦を尋ねて、菖蒲の前に巡り会いなさい。そして、私の代
わりに懺悔して、姫が恨みが消えたなら、千部万部の御経よりも、有り難いことです。
ああ、苦しや。」
と、言い残して、とうとう御台は、亡くなりました。兄弟の人々は、空しい死骸に抱き
ついて、泣き口説いていましたが、大人しげな菊若は、すっくと立つと、
「いつまで嘆いても仕方ない。まず、御遺骸を、どこかに納めましょう。」
と、言いました。姉は、弟に促され、ようやく立ち上がると、兄弟二人で、母の遺骸を
弔いました。その心の内こそ、哀れというより外はありません。
さて、突然に遁世した滋賀殿は、発心が固く、その後、「善光坊」となり、三年の間、
諸国行脚の修業をしていました。家臣の景次も、出家をして、西寛坊と改めて修業をし
ていましたが、信濃の国で、二人は巡り会い、主従打ち連れて、しばらく西国行脚を行
いました。やがて、仏縁によって、二人は、滋賀の国にもどって来たのでした。
「如何に、西寛よ。故郷へは錦を着て帰るものと聞いていたが、我々は、色も匂いも
墨染めの、変われば変わる世の中やなあ。」
と、朽ち果てた館の中を見て見ると、仏前に新しい位牌を立てて、灯明をつけ、香華を
供えて、兄弟がひれ伏して泣いているではありませんか。二人の僧も、目と目を見合わ
せて、泣くより外にはありません。西寛は、あまりのいたわしさに、
「如何に、我が君様、御名乗りください。」
と、言えば、善光坊は、
「いや、愚かなり、西寛。名乗って、喜ばせたくも思えども、そうすれば、仏の金言に
背くことになる。今生はこれ、仮の宿りに過ぎぬ。ただ未来こそ誠なり。」
と、言うと、思い切って館を後にしました。道心の志の強さこそ、大変殊勝でした。
父が、覗いていったことも知らずに、兄弟は、やがて、旅の準備をすると、母の遺言
に従って、習わぬ旅路へと出たのでした。しかし、慣れぬ旅に、道ははかどらず、幼い
二人の兄弟には、辛いことばかりです。とうとう若君は、小松浜(大津市志賀町)のあ
たりで、ばったりと倒れてしまいました。姉は、
「お前は、嘆いてばかりいて、食事もろくに取らないから、歩けなくなるのです。何か
食べ物はないものか。」
と、辺りを見ると、おいしそうな花瓜(きゅうり)が沢山なっています。蔓を押し分け
て、一本取ると、
「さあ、これを食べなさい。」
と、差し出しました。菊若が、喜んで、忝ないと食べようとしたその時、大の男が飛ん
で来て、兄弟の人々を情け容赦も無く押さえつけると、
「やあ、この頃、夜な夜なこの瓜を、盗み荒らす曲者は、お前達だな。」
と、有無も言わさず、杖振り上げて、めった打ちに打ち叩けば、姉は、弟に覆い被さり、
「のうのう、情けない。この若は、何もしていません。これを取ったのは私です。叩い
て、気が済むのなら、私を打ってください。」
と、泣いて詫びました。男は、はったと睨みつけると、
「女とても、容赦はせぬ。杖の味をよっく覚えよ。」
と、今度は、姉を散々に叩きました。弟は、必死に立ち上がって、今度は、姉をかばい
ます。
「おやめ下さい。女のことなれば、お許しください。どうぞ、私を打ってください。」
男は、小賢しい小僧だと、さらに怒って、拝み打ちに叩き伏せ、立てば打ち倒し、散々
に打ち散らすと、やがて打ち疲れて、去っていく姿は、凄まじいともなんとも、哀れと
言う外はありません。
兄弟の人々は、慣れぬ旅の疲れにも増して、思わぬ邪険の杖を受けて、目も眩んで、
ふらふらと、立ち上がることもできません。姉は、必死に起きあがり、
「のう、菊若。ここに居ては、またもや憂き目に会うかも知れぬ。さあ、歩くのです。」
と、弟を引き上げようとしますが、菊若には、立ち上がる力さえ残っていませんでした。
菊若は、声を振り絞り、
「姉上様、五体はすくみ、最早一歩も歩けません。私をおいて、どうぞ、海津へ行って
ください。早く、早く。」
と、言うと、ばったりと気を失いました。
「そなたを、置いて、誰を頼ったらよいのです。ええ、しっかりしなさい。」
と、言うと、弟を肩に担いで、よろよろ、よろよろと、進み始めました。いたわしや
姫君様は、心は弥猛に早やれども、のろのろ、のろのろと、ようやく一歩を進めるので
した。しかし、姉は、木の根に躓き、かっぱと転んでしまいます。菊若は、意識を取り戻し、
「のう、姉上、どうしたのです。」
と、取りすがりました。姉上は、
「お前は、怪我はありませんか。この様子では、もう一歩も進めません。ここで、一夜
を、明かしましょう。」
というと、兄弟は、何処とも知らぬ山中で、抱き合って、泣きながら寝入ったのでした。
やがて、老人が一人、薪を背負って通りかかりました。
「やれやれ、こんな所に寝ていては、犬や狼の餌食となってしまう。やれ、兄弟の人々。
お目を醒まされよ。」
と、老人は、二人を起こすと、兄弟の人々を、弓手と馬手にかいこんで、軽々と抱き上
げ、あっという間に、海津の浦まで運んだのでした。兄弟の人々の心の内、嬉しきとも
なかなか、申すばかりはありません。
つづく