かさでら観音の本地 ⑥
さてその頃、右大臣頼忠公は、尾州の熱田神宮へ参詣なされ、その帰路、琵琶湖畔ま
で来られましたが、長浜より、舟に乗りました。ところが、秋の天候は変わりやすく、
俄に、空が掻き曇り、波風が荒くなり、大雨となってしまいます。ひとまず、どこへで
も寄港して、風雨をしのごうとということになり、帆を下ろして、海津の浦に向かうこ
とにしました。海津の浦に着くと、頼忠一行は、弥三太(やそうた)の館で休むことに
なりました。弥三太の館とは、菖蒲の前を拾った、あの夫婦の家でした。夫婦は、突然
の公卿の訪れに驚き、これは冥加やなとばかりに、頭(こうべ)を地にすりつけました。
奥へ入った、頼忠公は、思いもよらず、美しく上品な姫君がいるのを目にしたのでした。
十七八と見えるその姫は、裏山吹(襲の色)の十三衣(きぬ)を上重ねて、紅の袴を召
しています。頼忠は、もうその美しさの虜(とりこ)となって、この世に、これ以上の
女性はいないだろうと、つくづくとご覧になりました。頼忠公は、夫婦に、この姫は、
どちらの、いかなる姫なのかを聞きました。弥三太は、姫が、この館にやってきた時の
ことを、詳しく話しました。それを聞いて頼忠公は、
「むう、それは、神妙な話じゃ。用があれば、呼ぶので、ひとまず下がってよからん。」
と、言うと、しばらく考え込んでいましたが、見初めたその艶姿を、忘れようにも忘れ
られません。恋心がむくむくと湧いてきて、寝るにも寝られません。我慢できなくなっ
た頼忠公は、とうとう、姫の一間に忍び入りました。頼忠公は、
「姫君様は、おいでですか。あなた様は、都にては、どのようなお家の方なのですか。
どうぞ御名乗り下さい。」
と、声を掛けました。姫君はこれを聞いて、振り返ると、
「恥ずかしいことですが、私は、卑しき海女の子供です。お見受けしますところ、都人
のご様子ですが、どうして、このような粗末な家にいらっしゃったのですか。早くお帰
りなさい。」
と、言いますが、頼忠公は、さらに魅了されて。
「海女の子であるはずがありません。誠に、その紅(くれない)のお姿は、園生(その
う)に植えても、一際目立つに違いありません。どんなに、隠しても、只の人には見え
ません。ありのままにお話ください。私は、貴女のやんごとないお姿を見初めて、心も
空と、憧れてしまい、寝ることも出来ないのです。」
と、口説きました。姫君が、
「恥ずかしながら、私には、かつて結婚を約束した方がおりました。なんと、仰られて
も、この身は、捨てられた小草(おぐさ)なのです。このまま、朽ち果てるのが私の運
命なのです。」
と、やんわりと断りますが、頼忠公は、なおも離れがたく、
「それは、どこのだれのことですか。ありのままにお話ください。」
と、迫りました。姫君は、話すまいと思っていましたが、あまりに頼忠公が、しつこいので、
「それでは、お話いたしましょう。夫と定めしその人は、名前を言うのも恨めしや。
都の関白殿のご子息、右大臣頼忠卿と申す人。かく言う私は、中将有末が娘、菖蒲の前
と申す者。」
と、言い終わらぬ内に、頼忠公は飛び上がって驚き、
「いや、それは、おかしい。我こそ、右大臣頼忠であるが、その菖蒲の前には、かつて
一度、対面し、故あって暇を参らせた者。」
と、言えば、姫君は不思議に思い、
「それは、おかしなこと。私は、あなた様に会ったことはありませんよ。会ったという
証拠があるのですか。」
と、言いました。すると頼忠公は、
「かつて、私は、卑しき猿回しに扮して、滋賀殿の西の対の御殿に上がりましたが、そ
の時に、忍んで会った菖蒲の前は、貴女ではありませんでした。いったいどういうこ
とでしょう。」
と、答えると、姫君には、心に思い当たることがありました。
「はて、それはその折り、私の継母に、言われる儘に、返書を認めましたが。さては、
継母が計略を巡らして、偽の姫を使わして、御身様と、私の縁を切ったのですね。今、
分かりました。ここに、こうして居るのも、全て継母の企てたことの結果なのです。」
と、菖蒲の前は、これまでの事の成り行きを合点しました。頼忠は、横手を打って、
「さても、浅ましいことだ。神ならぬこの身の悲しさよ。貴女の心が、それ程とも知ら
ず、一方的に縁を切るなどとは、我こそ愚か者です。そうと、分かれば、こんな所に
長居は無用です。今から直ぐに、都へ戻りましょう。」
と、喜びました。丁度、雨風も収まったので、頼忠は、姫を夜に紛れて連れだそうと、
取る物も取りあえず、姫君を輿に乗せると、お供の者どもをたたき起こして、浜路を指
して出立しました。
いきなり来て、いきなり居なくなり、しかも姫君までさらわれた弥三太夫婦は、二度
びっくりして、後を追っかけました。一行に追いついた弥三太が、