かさでら観音の本地 ①
この物語は、愛知県名古屋市南区笠寺町にある、天林山笠覆寺の十一面観音の謂われ
を説くものであるが、この寺に伝わる「玉照姫」の由緒とは異なり、開祖善光上人にま
つわる物語である。
主な登場人物
①帥の中将有末(そつのちゅうじょうありすえ)=滋賀殿
物語の後半で出家し、善光坊(ぜんこうぼう)となり、笠寺を建立する。
本文では、「善く坊」と書かれているが、本稿では、笠覆寺の縁起に従って善光とす
る。また、善光坊が中将有末という公卿であったという、実際の記録は見あたらず、
中将有末という人物も特定できないので、八太夫の創作である可能性が高い。他の登
場人物についても、同様に考えてよいと思われる。
②本妻(菖蒲の前の母)
村上天皇の第二皇女と書かれている。史実によると、才知豊かだった源計子が生んだ
理子内親王のことになるが、13歳で死去している。婚姻したかどうかは不明。早逝
の記事を利用したもののようである。
③菖蒲の前(あやめのまえ)
長女。藤原頼忠に見初められたことを発端として、事件が起こる。
④後妻(北の方)
美濃国、花山左京太夫友行の息女と、書かれているが、人物を特定することはできな
かった。
⑤真菰の前(まこものまえ)
次女。後妻の子。
⑥菊若(きくわか)
長男。後妻の子。
⑦早川左藤左衛門景次(はやかわさとうさえもんかげつぐ)
後妻の郎等として、中将の家に入り、武勇に優れていたので、執権職を得るが、菖蒲
の前の事件を契機に出家し、「さいかん坊」となる。漢字の当てが不明なので、本稿
では、「西寛」と記載する。特定できる人物はいない。
⑧早川文太重次(はやかわぶんたしげつぐ)
景次の兄。藤原頼忠の家臣として設定され、菖蒲の前との仲を取り持つ役。
⑨右大臣藤原頼忠(よりただ)
物語では、関白頼定(よりさだ)の長男と設定されている。菖蒲の前に恋をするが、北の方の計略にはまってしまう。史実では、冷泉天皇の関白太政大臣藤原実頼(さねより)の二男として特定できるが、本物語のような浮き名を流したのかどうかは不明。
天満八太夫正本 元禄4年5月 伊東板
そもそも、上一人より、下万民に至まで、男は外を勤め、女は内を守る事、これ和国
の風俗。政(まつりごと)の随一なり。また、夫婦、堅固になる時は、家穏やかにして
子孫繁栄す。女心、僻める(ひがめる)時は、必ず国を乱し、人を失うによって、慎む
べきは、偏・着の二つなり。
天皇六十三代冷泉院の頃、帥の中将有末殿(ありすえ)という公卿が一人おりました。
家は富み栄え、家来もたくさんおりました。第一の姫は、菖蒲の前(あやめのまえ)
御年十四歳。大変な美人で、性格も穏やかでした。この姫の母親は、村上天皇の第二皇
女ですが、残念なことに、姫が二歳の時に、既にお亡くなりになってしまわれました。
中将殿は、深く悲しまれて、憂き年月を過ごされましたが、御門も不憫に思われて、江
州滋賀の里に知行を給わり、琵琶湖を望むこの地にやってきたのでした。今では、滋賀
殿と呼ばれるようになりました。
やがて、後妻として迎えられた、今の北の方は、美濃の国、花山左京太夫友行のご息
女です。この御腹にも、二人の兄弟ができました。姉を、真菰の前(まこものまえ)
と言い、九歳。弟は、菊若(きくわか)六歳でした。両人とも大人しく、才知に長け、
人々からも愛されて、誠に、滋賀殿の果報を、羨ましく思わない者はありません
でした。
また、家来の早川左藤左衛門景次(はやかわさとうさえもんかげつぐ)は、現在の御台
様の本国から、付き従う譜代の家来で、武勇に優れて、執権職を勤め、正しく政(まつ
りごと)を行いました。
ある時、景次は、中将殿のお前にかしこまって、
「内々、申し上げますように、それがしが兄、早川文太重次(はやかわぶんたしげつぐ)
は、関白太政大臣頼定卿のご子息、右大臣頼忠卿(よりただ)に召し使われし者ですが、
ご息女、菖蒲の前様の事を、内々、頼忠卿へお伝えし、ご縁の結びを運ぶ算段。それに
付き、姫君の御家系図、ならびに御粧いを書き付けて、送るようにと、再三の催促。ど
うぞ、由緒書きをいただければ、有り難く候。」
と、言いました。中将殿は、由緒書きを認めると、景次に託しました。景次が、
「いかに、御家中の皆々様、菖蒲の前様、都、関白殿へ、お輿入れの御寿のあり。
皆々、悦びあれ。」
と、触れて回ると、人々は、皆悦び、万歳楽(雅楽の曲名)を奏でて、お祝いをするの
でした。
さて、関白頼定卿のご長男、右大臣頼忠卿という方は、御年、28歳の花盛り。
色も匂いも尋常なお方ではなく、例えるならば、唐土では、「陸老」(宗の役人:名誉も
財産も自在であったという)、日本においては、聖徳太子、惟喬(これたか)惟仁(こ
れひと:清和天皇)桓武天皇。在原の業平、行平(ありわらのなりひら、ゆきひら)と
いえども、この若君に、勝てるものではありません。それほど、和歌の道に長けており、
本朝無双の美童であると言われました。
さて、旧暦7月7日、七夕の祭りの日に、景次は、菖蒲の前の由緒書きを、兄重次に
届けました。重次は、早速に、右大臣頼忠の元へ