私の思いと技術的覚え書き

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何故に閉塞感が生まれるのか?

2022-09-16 | 問題提起
何故に閉塞感が生まれるのか?
 現代日本を眺める時、あらゆる個人や組織の活動というものにおいて、限界感、閉塞感、活力不足というところを感じてしまう。これは経済問題で特に顕著に表れているが、必ずしも経済の範囲に留まらない様に思える。

 野党第一党の立民に泉健太という人物が選任されたが、このところの国葬問題で、ぐずぐずと態度を表明せず、外堀が埋まり、誰が見ても選択肢がない状態に至って、決断を表明したことに、世間の非難を受けている訳だが、様は組織のリーダーは決して見通せない未来の中、機先を制する自らの決断で組織体の意志を制御する力を持つべきがリーダーとしての素養の一つとして期待するから、その失望もあり非難を受けたと云う理解をしている。このことは、岸田首相にも類似するものがあり、当初の期待から徐々に支持率を下げているのも類似のものがある様に思える。

 現代社会は、ブラック企業とか、あおり運転とか、昔からあった現象を、ある意味法令強化により矯正しようと目まぐるしく罰則強化が図られる傾向がある。しかし、それによって、それら犯罪が撲滅されたかと云えば、決してそうはならないと云うのが事実だろう。つい先日の、幼稚園バスの置き去り熱中症死事件も、早速法令強化などの論議となるのだが、恐らくそういう処置をしても、類似事件の絶滅には至らないのではないだろうか。これはちょっと以前の、千葉で生じた白ナンバー運送企業の業務中飲酒運転で、この4月から白ナンバーでも業務使用の企業には、出発帰着の点呼や飲酒検査が法令で義務付けられるなどしたが、恐らくこれも類似犯はこれからも生じ続けるのだろう。

 なんでこういう現象となるのかを考えて見たとき、ものごとの生じる原因をとことん追求しないまま、上っ面の法令強化により改善を図ったかの様に装うことがあるからと思える。つまり、ある事件が生じると、そこに関わるリーダーとか監督官庁は、真の理想の姿を明確化させぬまま、上っ面の法令強化などにより世間の同意というべきか、自己満足に終始する傾向があるのではないかと思える。

 話しは飛ぶが、今あらゆる業種で、プロ意識の希薄化と云うべき現象が生じていると思える。つまり、旧来ならその業種のプロと云うべき熟練者とか練達者が、少し前の時代なら徒弟制度に近い思想で、そのプロたる真髄の精神を代々伝えていたのだが、そういう行為が否定されつつ淘汰されてしまった。その理由として、マニュアル化とか数値管理などの評価制度により、企業が言葉ではともかく、真のプロを求めないと云うべきか、プロに依存することを企業リスクと思考する経営思想が蔓延してしまったからの様に思える。

 現代経営者の思想としては、冒頭記した政治屋とほとんど類似で、リスクを恐れ結論を先延ばししつつ、決して冒険をしないことだろう。そして、従業員に求めるのは、真のプロと云うより、企業リスクを回避することを第一義とした、能力の均一化ではなかろうか。

 これについて、最近感じた事象として、ある専門性の高い業種の教育部隊というべき指揮官(企業で云えば部課長クラス)が、一般論として企業教育の必要性を認める発言をしつつ、その教育思想の実態は何かと探って見た。つまり、私はそのリーダーに、あなたの教育対象者に求める理想像を述べて欲しいと要求したのだが、その答えが専門性を持つ業種であるのに関わらず、余りに薄っぺらい一般論に終始し、私の理解としてはその理想がなきに等しいものであることが理解できたのだ。この理想が明確でない教育に、何ら教育の完成像はあり得ず、形ばかりのものとなるだろう。このことは、先に記した、事件の発生と、その成因をとことん追求せぬまま、罰則強化という形だけで矯正するのが困難という現象とも共通するのではないだろうか。


#現代思想 #プロの欠如


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