新聞に3.11を前にして原発関連死の記事が毎日載っている。
原発事故直後避難を余儀なくされたわれわれにとって屈辱とも思えることが数多く起こっていた。
原発事故直後スクリーニングを受けに行って、防護服に身を固めた人に汚いものでも触るように線量を測定されるときの不安感や屈辱感。
寒いところで冷たいおにぎりをかじった。
地震で助かった後に津波に襲われた。そして原発事故。
なにも俺たちは悪いことをしていないのになんでこんな嫌な思いをしなくてはならないんだ。
これからどうすればいいんだ。毎日が不安の塊で身体がおかしくなりそうな数日間だった。
俺もそんな辛い思いをしながら避難したんだから、身体の弱い高齢者にとっては生死をかけた避難だったろう。
原発事故により避難を余儀なくされ亡くなられた方は500名を超える。
毎日記事を読んでいると悔しさや悲しさがこみ上げてくる。
100歳を超えるまで元気でいたおばあちゃんの最期はなぜこんな対応をさられなければならなかったのだろうか?
被曝を疑った医師の診察拒否
東京電力福島第一原発事故で施設からの避難を強いられたお年寄りは、県内外の病院や施設などで次々に命を落としていった。1月までにその数は520人に及ぶ。避難先を転々とする中、体調を悪化させ死期を早めた。東京の病院で被ばくを疑われ、一時は診察を拒否された高齢者もいる。不条理な差別を受け、故郷の地を踏めないまま逝った。遺族の嘆きは深い。ついのすみかを追われた災害弱者の「原発事故関連死」を追う。
病室の母は、体にたくさんの管を付けられ力なく呼吸するばかりだった。心肺停止で埼玉県行田市の総合病院に救急搬送されたと聞いて駆け付けた時、既に意識はなかった。
「これでお別れになるのかな。双葉に帰れなくてごめんね」。東京都練馬区の篠美恵子さん(65)は、母・山本ハツミさんの手をそっと握った。
翌日の平成23年11月3日。親族らが見舞った後、ハツミさんは静かに息を引き取った。急性循環不全。102歳だった。
「100年も双葉で暮らしてきて最期が埼玉だとは。母も悔しかったと思う」。母のそばで過ごした7カ月は、あっという間だった。
双葉町の高齢者施設「せんだん」に入所していたハツミさんが原発事故で郡山市の郡山養護学校に避難していると聞き、たまらず夫婦で3月17日夜に迎えに行った。
22日午後9時すぎだった。ハツミさんが38.8度の熱を出した。郡山から都内の自宅に連れてきて、4日目だった。夫の常雄さん(66)に体温計を見せた。「ちょっとまずいな。衰弱している」
食事も排せつも自立し、認知症もなかった母が明らかに弱っていた。
到着した救急隊員はストレッチャーを手に搬送の準備に掛かった。「郡山でスクリーニングを受けた」と説明すると、隊員は動きを止め、顔を見合わせた。
「検査結果を知る必要がある」と告げられ、施設側に確認した。「被ばくはしていない。具体的な数値は現場が混乱していて残っていない」。教えられた内容をそのまま隊員に伝えた。
救急車は15分ほどで都内の総合病院の救急搬送入り口に滑り込んだ。迎えた男性医師は、上半身にプロテクターのようなものを身に着けていた。レントゲン撮影時に用いられる放射線防護用エプロンだった。救急隊が病院側に母が被ばくしている可能性を伝えたのだと思った。
「被ばくしている人は診察したくない」
医師から発せられた言葉は、診察の拒否だった。美恵子さんは事態をすぐには理解できなかった。
「私にも家族がいる。被ばくしたら困る」
美恵子さんは、全身から力が抜けていくのを感じていた。スクリーニングで母の体に放射性物質は付着していなかった。なぜ信じてくれないのか、なぜ差別されなければならないのか、母が何か悪いことでもしたのか-。空白の時間の後、ようやく言葉を絞り出した。
「診てもらえないなら、福島に連れて帰るしかないわね」
医師への失望は、強い憤りに変わっていた。衰弱していく母を見ていられなかった。
問答の末、医師は「それじゃあ」と言って、渋々診察を始めた。結果は心筋梗塞と肺炎。心臓の血管がふさがるか、細くなるかして血流量が少なくなっている可能性が高いということだった。
食事も歩行も排せつもできた母。「双葉町の老人ホームを追われ、避難先を転々とした疲労がたたったのか」。美恵子さんは天を仰いだ。同時に「何とかしてもらいたい」とすがる思いだった。
だが、医師は静かに告げた。「この病院にはカテーテルの設備がない。他の病院に行ったほうが良い」
総合病院で心臓カテーテルができない? そんなことがあるのか-。他の病院に行かせるために、心筋梗塞と診断したのではないか。美恵子さんは診断そのものさえ疑うような気持ちだった。「カテーテルの治療はしなくても結構です」と転院の打診を断った。
ハツミさんの容体は回復せず、即日入院することになった。用意されたのは1日2万500円かかる個室。医師からは相部屋は満杯で個室しか空いてないと説明された。美恵子さんと夫の常雄さん(65)は個室を承諾したが、「母は被ばくの疑いを持たれて隔離されたんだ」と思った。
福島民報社の取材に対し病院は「看護日誌には当時の入院患者総数の記載しかなく、なぜ個室を使用したのか記録にない。男性医師は既に退職している。病室の稼働状況と患者の容体などを医師が総合的に判断したのだと思う」としている。
ハツミさんはがらんとした個室のベッドで目を閉じていた。寝顔を確認した美恵子さんらが自宅に戻ろうとしたところ、男性医師から声を掛けられた。
「このまま(ハツミさんを)引き取りに来ない、なんてことはないですよね」
ため息しか出なかった。「悔しいやら情けないやら。でも、何とか母を助けてもらいたかったから...」。何も言い返さずに足早に病院を後にした。
あれからもう2年が過ぎようとしている。
原発事故により多くの事を経験した。
忘れられない励ましの言葉や感激することも多かったが、不安で身体が震えるような気持ちや差別も体験した。
良い事も悪い事も残り少ない生涯、忘れることはできないだろう。