東日本大震災から2年を迎えた11日に国立劇場で政府主催の二周年追悼式が行われた。
その模様はテレビ中継され震災発生時間の午後2時46分から国民に黙とうを呼びかけた。俺はちょうど南会津の方に行っていたので、車を止め東側の太平洋の方を向き黙とうをささげた。
追悼式では被災地の岩手、宮城、福島の3県の遺族代表が亡くなられた方々に向けて復興への決意などを述べましたが、福島県は南相馬市で農業を営み、津波により愛妻をなくされた八津尾さんが代表を務めました。
八津尾さんは車2台で避難しましたが、避難途中に津波に会い後ろからついてきた奥さんが流されてしまいました。南相馬市では夫婦で農業や地域活動に活躍していましたが残念です。
八津尾さんは震災から1ヶ月もたたないうちから、津波で流され何もなくなってしまった自宅の近くの畑で農作業を始めました。「俺には農業しかない。農業でもここで生きていけることを証明したい」とテレビの取材等に応えていた記憶があります。八津尾農園として花や野菜の苗を生産し地域農業の先頭に立ってきた八津尾さん夫妻。奥さんが亡くなり一人になっても津波による塩害と放射能、風評被害と闘いながら前向きに農業を再開しています。
その八津尾さんが追悼式で述べた言葉をここに残したいと思います。
あの、悪夢のような震災から2年、今朝も目が覚め被害にあった自宅へ車を走らせると、やはり夢ではない現実がそこにあります。風が吹くと砂塵が舞う荒涼とした大地、その向こうにかつてあったはずの緑の松原は消え去り、まぢかに迫りくる海岸線、平穏な生活の営みがあったはずの、緑豊かな農村風景はそこにはありません。
私の住んでいた南相馬市、一翼を担ってこられた方々、また、福島を、日本を背負っていったであろう方々、夢、志、半ばにしてお浄土へ行ってしまいました。
六百数十名が犠牲になり、多くの方がいまだに家族の元へ帰ってきておりません。認めたくない現実です。
対岸の火事と思っていたこの自然現象で、地球より重い命、愛しい家族、数多く失ってしまいました。あまりにも無防備だったことに対し深く反省し、二度とこのようなことにならないように、この惨状を後世に伝えていかなければなりません。
あの震災直後、身の危険も顧みず人命救助、行方不明者の捜索をしてくださった、消防団、自衛隊、警察、地元住民などで、多くの命を救って頂いたし、犠牲者の発見もして頂き、家族の元へ帰して頂きましたこと、そして、全国各地より物心両面でご支援頂きましたことに対し、改めて感謝申し上げます。
2年の月日が経過する今、私たちはなかなか前へ進めないでおりますが、残された私たちに「亡くなった家族の思いは何か」ということを考えると、それは現実を受け止め、一歩一歩前へ力強く歩んで行くことではないかと思います。
住宅の再建、農地の復旧、地域のコミュニティー、放射能不安などなど、課題山積、前が見えませんが、本日を一つの節目とし、力を合わせ、緑豊かな、元の、いや元以上の故郷、子供たちの歓声がこだまする故郷再生、再興のために努力していくことを、心をお寄せいただいた全国の皆様方に、そして、お浄土へ行ってしまった御霊に、お誓いを申し上げ追悼のことばといたします。