江戸の町に住む町人達の生活を覗き見てみる。
江戸は、人口百万の世界一の大都会であったが、その人口の16%が町人、その他殆んどは武士階級。
それ故、町人達は町人町に押し込められ人口密度は、五万五千人/平方キロメートルと超過密な暮らしだった。
町人の七割は、借家(いわゆる九尺二間長屋住まい・・・今で言えば1K)に住んでいた。 家賃は、一日の稼ぎに相当する三百文から五百文と至極安かった。
土地を所有することが大名取引上の信用UPになるため、商人は土地の所有を拡大した。土地を遊ばせるわけにいかないので、商人はどんどん長屋を建て賃貸したので、長屋の供給は十分だったし、当然家賃も高騰が避けられた。
長屋住まいの住人にとっては、公共料金(井戸さらい代・下水道代・・・・)が、全て大家持ちであることが、大きな利点であった。
老後の生活・病気・子供の教育費などをどうしたのかについては、「七分積み金制度」について触れなくてはならない。
この制度は、天明の飢饉が引き金で松平定信が制定した制度である。
災害保険・年金・生活保護に類するものは、この制度で救済が行われた。
七分積み金は、地主が支払うのである、一般の町人ではないことに大きな特徴がある。
また、教育費は、寺子屋は殆んどボランティアに近く、お師匠さんへの心づけは月二百文程度だったので、負担はしれたものだった。
江戸期は、少数の地主が纏めて地代(固定資産税のようなもの)・七分積み金などの税に相当するものを支払ったので、現代のように徴税役人などは全く不要で、非常に効率的なお役所であった。
そんなこんなで、江戸の町人達は胸を張って「宵越しの銭は持たねー」と粋がることができたのだそうである。
粋がれることが、ごく自然な環境であったと聞くと、なんだか拍子抜けした。
明暦の大火以降、三年に一度くらいの頻度で大火が発生した。
大火は大都会の華と庶民が喜んだのは、公共投資の効果が大きく期待できたからである。
この時代、多くの庶民は「焼け太り」をしたようで、むしろ大火を喜んだとも言われている。
贅沢な品物を買い揃えるなどはもってのほか、直ぐ焼けるとなれば、誰も所有する気にもならないのも自然なことである。
なんともはや、のんきな時代だったことであるか!