12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

宵越しのゼニ

2007年11月14日 06時56分22秒 | Weblog

 先日の旅行記事で、スイスの全鉄道5100kmの内、登山鉄道と言う特殊な鉄道とは云え、僅か半日間約20km乗ったに過ぎないのに、知ったかぶりをしてしまった。

更に、知ったかぶりを続けることにする。
江戸時代の庶民(江戸在住者に限られたのかもしれないが)は宵越しの銭は持たないと粋がったのであるが、それにはそれなりの理由があった。

江戸期のことについての詳しくは前稿で述べたので、本来の話に入ることにする。

スイスでは、家を新築するとき自宅の地下に「核シェルター」を設置することが義務化されていると聞いたことがある。
(現在もこの制度が、継続されているかどうかは知らない)

また、公共の建物の地下や高速道路の下にも「核シェルター」が完備され、住民全員が1ヶ月くらい生活できる設備と物資が蓄えられているというのである。

先日NHKで日本の食糧問題の現状が話題になったが、スイスでは、万一の時には、肉・酪農製品から穀物類に切り替えたうえで、必要量の70%くらいの食料を1ヵ年分備蓄しているというのである。

 目を転じて、時給を見ると、20~25フラン(1400~1600円/hr)が平均的なところ。特殊技能者の場合、庭師=50フラン、左官屋=60フランとのこと。
外国語のできる秘書では、7000フラン/月(45万円) 位のようである。

確かに、物価も高かったが、賃金も日本よりだいぶ良さそうである。

この国は、税金が三種類ある。連邦税=8%、州税=12%、市町村税=8~15%、合計約30%程度の高率な税である。

このような賃金・税の体系を元に、万一に備えた投資や皆兵制度を怠り無く実施しており、国民の理解が得られていることに驚かされた。

 現在の日本は、まさに無手勝流の「宵越しの銭は持たない」式国家である。


宵越しの銭 江戸期

2007年11月13日 04時14分39秒 | Weblog

江戸の町に住む町人達の生活を覗き見てみる。

江戸は、人口百万の世界一の大都会であったが、その人口の16%が町人、その他殆んどは武士階級。

それ故、町人達は町人町に押し込められ人口密度は、五万五千人/平方キロメートルと超過密な暮らしだった。

町人の七割は、借家(いわゆる九尺二間長屋住まい・・・今で言えば1K)に住んでいた。
家賃は、一日の稼ぎに相当する三百文から五百文と至極安かった。

土地を所有することが大名取引上の信用UPになるため、商人は土地の所有を拡大した。土地を遊ばせるわけにいかないので、商人はどんどん長屋を建て賃貸したので、長屋の供給は十分だったし、当然家賃も高騰が避けられた。

長屋住まいの住人にとっては、公共料金(井戸さらい代・下水道代・・・・)が、全て大家持ちであることが、大きな利点であった。

老後の生活・病気・子供の教育費などをどうしたのかについては、「七分積み金制度」について触れなくてはならない。

この制度は、天明の飢饉が引き金で松平定信が制定した制度である。
災害保険・年金・生活保護に類するものは、この制度で救済が行われた。

七分積み金は、地主が支払うのである、一般の町人ではないことに大きな特徴がある。

また、教育費は、寺子屋は殆んどボランティアに近く、お師匠さんへの心づけは月二百文程度だったので、負担はしれたものだった。

江戸期は、少数の地主が纏めて地代(固定資産税のようなもの)・七分積み金などの税に相当するものを支払ったので、現代のように徴税役人などは全く不要で、非常に効率的なお役所であった。

そんなこんなで、江戸の町人達は胸を張って「宵越しの銭は持たねー」と粋がることができたのだそうである。

 粋がれることが、ごく自然な環境であったと聞くと、なんだか拍子抜けした。

 明暦の大火以降、三年に一度くらいの頻度で大火が発生した。
大火は大都会の華と庶民が喜んだのは、公共投資の効果が大きく期待できたからである。

この時代、多くの庶民は「焼け太り」をしたようで、むしろ大火を喜んだとも言われている。

贅沢な品物を買い揃えるなどはもってのほか、直ぐ焼けるとなれば、誰も所有する気にもならないのも自然なことである。

なんともはや、のんきな時代だったことであるか!


大山の秋 その2

2007年11月12日 08時41分05秒 | Weblog

黄葉・紅葉をご覧頂きたいと思い、前回に続いて掲載。

月末頃まで、綺麗なとの報道がある。 ご興味の向きは、お出かけください。蒜山・湯原・奥津なども見頃でしょう。


    




追記:道中くれぐれも、安全にはご留意ください。

ps:無線LAN不調、有線にて掲載中。
何時復旧できるか不明で困っています。


ロマンチック街道

2007年11月11日 06時30分08秒 | Weblog

 


     


 

 我々のツアーでは、全てを専属の観光バスで移動、フランクフルト空港からスイスへ、

そしてフッセンをロマンチック街道のスタート点とし北上、ローテンブルグをこの街道の終点とし、

更にフランクフルト空港までのバスの旅だった。三日間で全約1150km(岡山―静岡間くらいを往復)観光したと思っていただけばよい。

 

多くの日本人が、押しかけ、そして満足して帰国している「お勧めコース」の一つである。

 ロマンチック【romantic】を辞書で引くと、「現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。」と出てきた。

ちなみに、現在の「ロマンチック」という表現が、そういう意味で初めて使われたのは、ジャン・ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の「第五の散歩」の冒頭が最初で、近代の用法である。

 

本来、「ロマンティック街道」という名称は、「ローマへの巡礼の道」の意味である。もともとはローマ人たちによって作られた街道で、ローマへの道路網の一環として整備されたものなのである。

恋人たちの語らいのような「ロマンチック」からではなく、第二次大戦後、アメリカの将兵たちが家族とこの地方で盛んにバカンスを過ごしていたので、観光地として開発するために、この名でコースが設定された。

         

追記;
読者の中に、以前女性二人でドイツを旅した方がおられるのであるが、交通の比較的不便なこの地を個人的に旅されたのには頭の下がる思いがする。

 しかし、ゆったりのんびりと旅を楽しまれたであろうと思うと羨ましくもあった。

その読者(ひこどんさん)から下記のコメントを頂いた。

     

 ローテンブルグの城壁の中で、やっと見つけたホテルで一番高い部屋と安い部屋が残っているがどちらにしますかと聞かれ、

即 安い部屋と答えたので、シャワーもなくベットと小さな机がある狭い部屋に通された。

 貴方が泊まったロマンチックな部屋とは違い隣の部屋へのノブがあるのに開かずなにやら恐ろしいような部屋でした。

しかし 疲れていたので怖いと思う間もなく寝てしまいましたが。朝食付 2名 72マルク≒3900円でした。 “一人二千円足らずですか・・・驚きました!朝食代込みでね・・・!!“ 

    

 

 おまけ;「ロマンチック街道」について、ウィキペディア(Wikipedia)より。

“ ロマンティック街道(Romantische Straße, ロマンチック街道とも)は、ドイツのヴュルツブルクからフュッセンまでの366kmの街道ルートである。

「観光街道」=>Ferienstraße - 休暇街道。ドイツでは150以上のこうした観光コースがある。

ここでの街道とは、そのような1本の道があるというのではない。ほぼ直線状に連なったドイツの観光名所を地図の上でつなげ、続けて観光するのに便利なように案内した順路のようなもの。

ロマンティック街道は街道沿いに点在する中世都市(ローテンブルク、ディンケルスビュールなど)や、

美しい城(ノイシュヴァンシュタイン城、ハールベルク城など)、宗教建築(ヴィュルツブルクの大司教館やヴィースの教会など)、

工芸品(クレクリンゲンのマリア昇天の祭壇など)が点在し、フランケン・ワインやドナウ川のます料理など観光資源が豊富なルートで、最も人気の高い観光街道の一つである。

 ロマンティック街道はローテンブルクで人気の観光街道古城街道と交差する。 移動には自転車、バス、マイカーなど多くの異なる可能性がこのルートにはあるが、町々を観光する時間を取りながら運行される定期観光バスもある。“

(調べてみると、個人的な旅行では、この定期観光バスが最も適した交通手段のよう思える、一方、鉄道での移動は、本数が少ない関係で接続が悪く、あまり便利ではない) 


オードリー

2007年11月09日 07時00分04秒 | Weblog

「ローマの休日」のオードリーは、小生のアイドルだった。

彼女は、64年の生涯の2/3をスイスで過ごし、平穏という意味の「ラ・ペジーブル」の館(レマン湖畔のトロシュナ村)で1993年に亡くなるまでの約三十年間を過ごした。 

 最初の結婚は、長男ショーンをもうけたメル・ファーラーとビルゲンシュトックの教会で挙げた、
二番目の結婚は、イタリア人アンドレア・ドッチィとで、二人の息子をもうけているが、こちらも離婚。

 最後のパートナーはオランダ人のロバート・ウオルターズ、この人によって初めて本来の自分を取り戻したといわれる。

彼女の葬儀には、メル・ファーラーもアンドレア・ドッチィも、当然ロバート・ウオルターズも参列している。

このような感覚が我々日本人には理解できないものであるが、もしこういう立場になったなら、離婚した相手の葬儀に参列できるというつき合い方が、羨ましく思われた。

    鈴木光子著(JTB) 「スイス とっておきの旅」より


喜び胸にますます精進(文化の日)

2007年11月07日 07時12分15秒 | Weblog

 本日も二つの記事を掲載することにした。なぜなら、この記事の賞味期限が短いからである。

写真は、山陽新聞の記事から引用。

 文化の日に表彰された方々である、市文化協会は26部ある、それぞれの部会にそれぞれが参加して楽しんでおられるようである。
この協会の文化活動に貢献のあった方々が表彰されたのである。

今年の表彰者は、俳句・日本画・洋画・華道・ペン字・詩吟・表装文化・ビデオ九部門の方九人であった、

「喜び胸にますます精進」と語っておられた。

「日本画」の方は同門の大先輩、
「表装文化」と「ビデオ」の方はどちらもビデオクラブでお見かけした方。

9人中3名のお方しかお顔を存じ上げない、それでも3割も知った顔があるのは、大したことのように思える。
小生の活動範囲の広さを感じたのである。

追伸:
写真中のお一方は、このブログをときどき読んでくださっているのではないかと思う。

この紙面をお借りして、お祝いを申し上げます。

    おめでとう御座います。

幅広い御趣味をお持ちのようですね。

 


コウノトリ 続編

2007年11月07日 07時04分41秒 | Weblog

写真は、「コウノトリの郷公園」で入手したパンフレットから。

コウノトリは、極東を中心に分布する鳥で、2000羽程度と推定されている。
非常に貴重な鳥で、現在、国内には飼育・放鳥を含めて僅か百数十羽程度である。

ベビーを運んでくるのは、くちばしの赤い「シュバシコウ」と言う近縁種である。
こちらはヨーロッパを中心に約85万羽以上と推定されている。

成鳥は、声を出さないが、くちばしをカタカタと鳴らす「クラッタリング」をする。

物知り友人が、ブログのコメントで教えてくれた。

 “  民話「鶴の恩返し」の“鶴”は、実は“コウノトリ”であった、という話をどこかで聞いた。

  “コウノトリ”には、クラッタリングと言って、求愛や威嚇のときにあの長いくちばしをカタカタと打ち鳴らす、“鶴”にはない習性がある。
その音が機織りの音に似ている事から、実はあれは“コウノトリ”だったのだ、というものであった。

  もしこの話が本当だったら、その昔は、あの民話のふるさと東北地方にも“コウノトリ”が棲息していたことになる。

 でもまあ、せっかく語り継がれたいおとぎ話に中途半端なリアリティーを持ち込むのも何だかネエ。 ”

よくもまー、一つ事を深く考えるものである、感心すると共にあきれたのである。

追記;
友人のコメントに言いがかりをつけることにした。

このパンフレットの生息分布を見ると、中国東北部まで生息しているようである。

それなら、“いにしえ”には、充分東北地方にも舞い飛んでいたようにも思えるのだが、如何なものであろうか?

イチイチ逆らって申し訳ない。

追記その2;
半農半漁人さんから、小生のビデオのブレが少ないので、三脚を使用したかと問い合わせメールが来た。

その通りであった、一杯のズームアップであった、三脚無しではどんなに息を止めても揺れてしまう。

 しかし、映像の出来映えについて、なんらのコメントもなかった。
彼の高い評価基準からすると、いかようにエコヒイキヲしても褒めようがなかったのであろう。


バイエルン王ルートヴィヒ2世

2007年11月06日 06時10分18秒 | Weblog
  

ルートヴィヒ2世は、ノイシュバンシュタイン城を建てた王である。
特異な生涯を送った方なので、調べてみた。

更なる詳細は、最後の補足に引用している、御興味があればお読みください。 以下ウィキペディア(Wikipedia)より引用。

 ルートヴィヒ2世(晩年のもの)

ルートヴィヒ2世 (Ludwig II. 1845年8月25日-1886年6月13日)は第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。
若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれてきた。

 「童貞王」と渾名され、生涯にわたって妻帯せず、美しい青年たちを愛した男色家(男性同性愛者)の君主として名高い。
若きバイエルン王 1864年3月10日、マクシミリアン2世が逝去。
ルートヴィヒは王として戴冠を受けた。

早速幼少の頃から憧れであった作曲家ワーグナーを宮廷に呼び招いた。当時、放蕩がたたって経済的に苦しかったワーグナーにとって願っても無い話であったが、多くの家臣は噂の悪いワーグナーの召喚を快く思わなかった。結局、王は家臣の反対を受け入れ、1865年12月、ワーグナーを一時追放した。

それから王は執務を嫌うようになり、幼い頃からの夢であった騎士伝説を実現すべく、中世風のノイシュヴァンシュタイン城など豪華な建築物に力を入れるようになった。さらに彼はルイ14世を敬愛しており、ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキムゼー城、またトリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を建設した。

ルートヴィヒ2世を主題とした作品『うたかたの記』(森鴎外作) 等がある。

洋の東西を問わず、城を見ると、豪壮華麗な感じより、哀切な・いたたまれないような感傷を抱いてしまう。
王たちの悲惨な滅亡の歴史が、城には何時もついて廻るのである。

 これでもかといった豪壮華麗さで、王たちは悲しみや虚しさを紛らせていたように思えてならない。

平凡な人生を送っていることに、感謝の念が沸いてくるのである。

 補足;
1866年、普墺戦争が勃発し、バイエルンはオーストリア側で参戦することになった。戦争を嫌うルートヴィヒは退位さえ考えたが、結局、議会の要求どおり動員令に署名した。戦争には敗れ、バイエルンはプロイセンに対して多額の賠償金を支払うことになる。

 ルートヴィヒ2世は女性に興味が無く、ホルニヒなど美青年たちを愛していたが、唯一人、心を許していた女性がいた。自分と同じヴィッテルスバッハ家の一員で従姉のオーストリア皇后エリーザベトである。彼女もまた彼と同じく堅苦しい宮廷を嫌い、逃避行を繰り返していた人物である為に、お互い心を通わせた。

王の将来を心配していた皇后は、自分の妹であるゾフィーを王妃として推薦したが、ルートヴィヒはゾフィーに無関心で婚期を延ばし、ついに婚約を解消した。家臣らも驚き、エリーザベトも彼の態度に怒りを覚えたのである。

 精神病?
1870年、普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたしてしまう。ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世界に入り、昼夜の生活が逆転してしまう。王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃された、と言われる。

 危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒの退位を企み、王に忠実であったディルクハイム伯爵の反対を押し切って、 1886年6月12日にルートヴィヒを逮捕する。代わりに政治を執り行ったのは叔父の摂政ルイトポルト王子であった。

ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日の6月13日にシュタンベルク湖畔で医師のフォン・グッテンと共に水死体となって発見された。その死の詳細は未だ謎のままである。

その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢を見ていただけでした」と述べた。
生前ルートヴィヒは「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と言い残した。それは彼が城を自分の世界にとどめたかった意思からきた言葉であったが、地元の住民らはその美しい城を壊すことができずにそのまま残し、現在は観光施設を兼ねた文化財として生き続けている。

ルートヴィヒ2世の精神病について
ルートヴィヒ2世は一般に精神病のために退位させられたとされるが、実情はバイエルンの恐慌にその原因があったとされる。
バイエルンは、1866年の普墺戦争におけるプロイセンとの講和条約のために多額の賠償金の支払義務があり、さらにルートヴィヒ2世の相次ぐ城の建設、政情不安などによる恐慌が起きていた。

そのため、責任を問われた総理大臣ルッツらが、フォン・グッテンら4人の医師に王を精神病と認定させ、禁治産者にすることを決定したのである。この点に関しては議論があるが、少なくとも4人の医師が実際にルートヴィヒを鑑定した記録はなく、証言者の信頼性に乏しい証言、観察をもとに診断書を作成したことは事実である。

上記記述の中の、「王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ているかのように語っていたり、」というのも、証言からの引用であり信頼性は薄い。


   ノイシュバンシュタイン城から ホーエンシュバンガウ城  を遠望

しかし、彼は夜を好み、ホーエンシュヴァンガウ城の自室の天井画を、昼の絵から夜の絵に描き換えさせたのは事実である。
当時の診断書によれば精神錯乱という病名を付けられているが、その内容はあたかも取ってつけたような内容であり、精神医学の観点から見ても、医学が政治に利用された愚かしい一面である。


大変だ

2007年11月05日 05時15分29秒 | Weblog

 山陽新聞という地方紙を読んでいる、僅か人口7万人足らずの小さな町の隅から隅まで判るような気がする。

    
写真は、ある日の記事。「鍛錬の成果70人披露」と大見出し、当市と岡山市からK先生が主宰する8教室約七十人が参加したと報じた。

 11月の中旬に岡山市で開催される県大会に向けて、機運を高めると共に教室間の交流を図ったとのこと。

昨年、初めてこの大会を見学した。総参加者数約800人と聞いた、かなり広い立派なスポーツ施設が満員状態だった。

 種目は9種目、我々初心者グループは、「入門・初級コース」で、先輩諸氏は、高度な数種目に出場する予定。

 我々の教室も市内に数箇所あり、平常はあちこちに分散して練習しているが、最近出場者全員が一箇所に集まり、毎金曜日午後7時から9時までの合同練習を始めている。

 それほど多くないが現役世代も混じっており、若手は時間のやりくりが大変なようである。

 K教室がかくも盛大な練習をしたことは、大変な脅威であるし、また県内の全ての教室がこぞって特訓中であろう。

 審判員に採点されるなどめったに経験したことにない初心者は、そうでなくてもドキドキし、大いにアガッテ何が何だか判らなくなる。

10人が綺麗に揃って演舞するには、まだまだである、毎回先生から厳しくお叱りを受けるのである。

あと合同練習は2回しかできない。
どうなるのだろう、大変なことになったように思っている。


迷惑メールのお詫び

2007年11月04日 05時51分58秒 | Weblog

 本日は、「五七五」に続いて、これで2件目の記事であるが、あえて、掲載することにした。(「五七五」の方は、左の記事一覧表から選択してください)

Stage6に関する、友人から返事のメールが着信した。

  “ 手続きが面倒だからいずれその内に・・・なんて思っていたけれど、催促されちゃあ放っとくわけにも参りませぬ。
外がシトシト雨だから駄犬との散歩もままならず、それじゃあ、とばかりにあっちこっちをおっかなびっくりでクリックしまくった訳でござるよ。

    途中の英語画面なんかは読んだことにして、次へ次へと大急ぎで、なんとか目的地に到達した。
 でも、画面に色んな物が出現したなあ。一部に怪しげな動画やアニメなんかもね。ツ-ルバーまでもが様変わりした。  さてこれからどうなることやら???  

ところで、お申し越しのご確認(ご質問)に・・・。
Q1.画はうまく見えています。
Q2.画質もバッチリです。
   縦横比は、おっしゃるとおり、
殆んどの画が縦長に引っ張られ ているのが分かりますが、リニアモーターカー から窓外を撮った画(高速道路の立体交差な ど)がむしろ横長に感じられるのは私の錯覚で しょうか?

  私めにはその他の技術的な事なんぞは皆目分かりませぬ。なにをどうやったらこんな事ができるのやらとんと見当もつきませぬ。

  ここまで来た道中で、なにやらそれらしき文言にもお出会い申したが、試してみる能も無く、意欲も湧きませぬ。 ”

 
毎日、Hな迷惑メールに悩まされているのだが、良く考えてみると小生の発信した「問い合わせメール」も、立派な迷惑メールであった。

 あまり興味のない人たちにとって、無理やりに見せられるStage6の映像などは、面倒なだけでどうでもいいものである。

 何人もの知人・友人・読者の方にご迷惑をかけたようである、本紙で謹んでお詫び申し上げる次第である。 


追記その1;
このメールを読んで、はたとあることに気が付いた、おかげで、縦横比問題は解決。持つべきものはよき友人であるが、先方さんは、小生を悪き友人と思っていることだろう。   

追記その2;
この友人は、会社では秘書に、自宅では奥さんにかしずかれた、
典型的なお任せ重役・丸投げ亭主である。
それ故、パソコンもかなり音痴めいている。

真に好都合なサンプルである、彼が見ることが出来るようなら、
日本全国のパソコン音痴の方々も見えるのではないかと、質問をしたのである。
 


五七五

2007年11月04日 05時40分12秒 | Weblog

      

      

写真は、地方紙山陽新聞の「五七五に思いを込めて 市俳句大会」記事。
応募句は58人から一七四句、当日句38人からは、各人三句だった、とのこと。
小生は、当日都合で参加できなかった。

市長賞を獲得したKさんは、小生たちの教室の他に2教室に出席している。
近年めきめき腕を上げている、その成果のようである。

 俳句教室の一女性から先日メールで「Stage6の映像が綺麗に見えた」とお褒めを頂いた。
それも大変嬉しかったが、「今度の吟行でお会いしましょう」とあった、こちらのほうが一段と嬉しいことであった。

第二日曜日は、吟行を市内の公園で開く、かくのごとき女性にも会えるのが最大に楽しみである。

だから、俳句は辞められないのである。


コウノトリ

2007年11月03日 06時02分39秒 | Weblog

     
兵庫県立「コウノトリの郷公園」に行く機会があった。 とてもスマートな美しくかわいらしい鳥である。
世界でも、二千羽程度しかいないということだった。

ビデオで鳥の様子を撮影してみた。 http://stage6.divx.com/user/tmnJPH/video/1799764/T1-ibis-rare-bird

上のURLをクリックすると、50秒程度の映像が見えます。

(ようやく、縦横比の問題もコウノトリの映像で 解決できました、
残りの映像も順次正しい縦横比の映像に更新していく予定)

 「見えない方のために;
1.上記を開き、一番下までスクロールしてください。
2.「Download」と言う項目を選んでクリックすると、、Download画面になる

3.ここから、DivX(R)Web Playerのインストール画面が出てきますので、これをインストールしてください。
4.DivXのファイル形式の映像が見えるようになります。

 おまけ;この公園のホームページより。

国の特別天然記念物であり、兵庫県の県鳥でもあるコウノトリの日本最後の生息地となった但馬地域・豊岡市において、昭和40年に人工飼育を開始するなど、豊岡市をはじめ地域住民の皆様の協力を得ながら、長年にわたりコウノトリの保護・増殖 に努めている。  

この間、野生コウノトリの激減や、飼育下のコウノトリの死亡、産卵から孵化の難しさなど、苦難の時代がありましたが、平成元年に繁殖に成功して以来、毎年、増殖に成功し、100羽を超えるコウノトリを飼育するに至っている。

 兵庫県立コウノトリの郷公園は、コウノトリの保護・増殖が順調に進展するなか、野生化の可能性をも含めた新たな視点に立って、人とコウノトリの共生できる環境と学習の場を提供することを目的として整備された施設である。  


無洗米(むせんまい)

2007年11月02日 08時00分30秒 | Weblog

半月ほど前から、無洗米を使用し始めた。最初の数回は、ベタベタや硬いご飯ができた。

どうしても、うまくいかないので、米一合を、450grとしてクッキングスケールで正確に計り、それを元に水加減をした。 従来の米と水加減が異なるのである、遂に美味しいご飯が炊けるようになった。

小生が購入しているお米は、5kg1700円前後の無洗米であるが、結構美味しい、何の不満もない。 洗う手間が一切不要なので、重宝している。

料理の先生に、無洗米のことをお尋ねしたが、「以前、一度食べたのだが、美味しくなかったので、それ以来使用していないため、良く知らない」とのこと、ちょっと不安になった。

ここ一週間くらい、スーパーに行く度に米売り場を覘いているが、あまり無洗米が売れている様子がない。

自分の選択が、正しかったのかどうか調べるため、Wikipediaを覘いてみた。 無洗米については、まだ書きかけ途中である。 ご参考までに、その一部を以下に掲載した。

どなたが書いたものかは不明であり、記事の信憑性は定かではないが、少なくとも気休めにはなった。

 “ 無洗米(むせんまい)とは、とぎ洗いの手間を省き袋から出して水を加えて炊くだけで食べられるよう、糠をあらかじめ精米工場で取り去る加工をした米のことである。

とぎ汁が出ないため環境にやさしいとされている。 無洗米ブームは首都圏の生協より広まったとされる。

現在、多くの社員食堂やほっかほっか亭、CoCo壱番屋などの飲食店でも使われている。理由は洗う必要のない便利さが主な理由である。洗う時間や使用水量を削減できることから、経済的な点から採用されている。

現在では一般家庭への普及も進んでいる。 “