伊豆諸島には昔からあしたばという植物が自生し、貴重な野菜になっていることはよく知られています。わたしは15年前に伊豆諸島を巡り、種を採取して庭に撒いたところ大変繁茂して根が建物の底を這い基礎が危うくなったのであわてて除去した経験がありますが、それほど萌芽力、繁殖力がよく、今日摘んだら明日には葉が出ているという旺盛な生命力を持つ植物です。このあしたばが炭酸ガスを大変多く固定することが分かり現在注目を集めています。 . . . 本文を読む
現代の行き詰まりは、おおむね市場経済の行き詰まりに発している。人類の生産力は十分なのだが、それが人類全体の必要を満たすだけの流通がない、ということである。
地上の人類が、すべからく、お腹を減らすことなく生活していくことができれば、それだけで貧困という概念は地上から消去されるだろう。食糧は自然が自然の力で生むものであるから、地上に平和をもたらし、貧困をなくすためには、自然を壊してはならないのである。このことも誰でも分かる話である。全ての思考はそこから始めたい。
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禁煙は4日目が難しい。これは私の実感である。自分はここまでがんばった。すこし一服しよう。そしてここまでの努力を反省しながら改めてこれからの禁煙の方策を練ろう。ここまでがんばったこの自分を褒めようという心理になるのである。その甘えが問題である。頑ばったじゃないか、頑張れるじゃないか、禁煙なんて簡単じゃないかという気持である。ならば一本ぐらいいいだろう、という心が起こる。もちろん、ここまで頑張ったのだからがんばり続けるべきだという心もあり葛藤がある。しかし、どうしてもここで休息をしよう、改めて禁煙の成果を味わおう、一服するのは必要だという心理になるほうが圧倒的に勝つのである。 . . . 本文を読む
レイチェル・カーソン協会の上遠恵子さんの「環境の世紀」の講演を聴きました。この講演は、子供さんからお年寄りに至るまで、どなたにもお聞かせしたい内容のものでした。人間が地球上に生き続けていくためには、人間は何をすべきか、何をすべきではないかということを、生物の1つとしてそれを考える機会を提供してくれたからです。人間は自分が生物であることを忘れ、他の生物を皆殺しにしたり、時には戦争で1つの民族を滅ぼしたりすることもしばしばありました。人間以外ににこんなことをする生物はいないのですが人間はなぜこんこなとができるのでしょうか?これは人間の本質なのでしょうか?いやいやそうではない、これからはそうしない、そうであってはならないと誰もが信じていますし、家庭や社会の教育の基本となっています。人は誰しも戦争や他の生物に対する虐殺(これは生態系を壊すことをいうのですが)を人間の本質であるとする考えには反対すると思います。だとしたらそのことにつながる危険な営みや狂信があればその芽を見逃さないできちんと摘んでおかなくてなりません。 . . . 本文を読む
禁酒という言葉のイメージは、苦痛を我慢するということが含まれる。従って、私は、禁酒という言葉は好まない。苦痛を我慢することはいやだから。しかし気づいてみるとお酒(を飲むの)は快楽かと言えばけっしてそうではないと言えるし、お酒はパンやご飯のように必須のものかと言えばやはりそうでもないといえるので、自分の中では、快楽でも必須でもないものは、自分につきまとう必要はなかろうということに気づくのである。ただ、たばこと違いお酒は時には必須の存在の時がある。交友とかセレモニーに欠かせないからである。酒が飲めるのに、自分本位の理屈を優先して杯を断るのは偏屈を通り越して嫌味であるし、人間同士の自由闊達な交際を自分から拒否するに過ぎないからである。 . . . 本文を読む
教会は山の上にそびえていると何となく威圧感を感じる。その先端の十字架がヨーロッパのローマカソリック教会の尖塔とだぶるからだろう。14日、坂の上の教会に行き大聖堂の中でハレルヤを歌ってきた。2008クリスマスコンサートと銘打って毎年、教会の大衆へのお披露目の行事であるらしい。教会は洗礼を受けたものと受けないものとでは、行っていい場所、行けない場所の区別があると聞いていたが、私は大聖堂はどうなんだろうと思っていたがこれは誰でも入れるらしい。そこで思い出したが、2年前に礼拝に行ったとき、神父の説教の後でパンのかけらが回ってきたので手を出そうとしたら制せられた。これで、パンは洗礼者のみが口にすることのできる物だと言うことを知った。とにかく、ろくに練習ができなかっが、アンサンブルと合唱団の中に紛れ込んで無事に「お役」をすますことができた。 . . . 本文を読む
禁酒や禁煙を重い十字架を背負ってでもやりとげるんだなどど気負うと必ず失敗する。ここでは禁煙のことだけを触れるが、禁煙は「楽しんでやるゲームと思うべし」ということだと思う。勝負だから勝ち負けがある。このゲームは、禁煙しようとする自分と、今度は負けてもいいかと思うもう一つの自分との勝負である。勝負に悲壮感を持ち込まず、負けたら負けたで敗因を分析し、いつか再び挑みたくなったらまた挑めばよい。これは禁煙に5回ぐらい失敗して、現在「休煙20年+アルファ」の私の考え方である。たばこを敵としない、むしろたばこを友としてもて遊びつつ休煙を続ける。これが20年も続けばまあ、禁煙に成功したと胸を張れるかも知れないが、たばこを克服したなどとえらそうな考えを持たないことである。私のたばこをポケットに常に忍ばせていた。吸いたければいつでも吸おうという気持に心をゆるめておくと結果的にたばこを吸いたい気持を抑制することができた。とにかく悲壮な決心をしないことが成功の秘訣じゃないかと思う。たばこが止められない理由は私なりに考えると下記のような理由があると思われる。
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おそらく、私はお酒もたばこも好きだ。もしもそれらが健康を阻害しない、いや、健康によいとなれば、禁酒・禁煙などあ り得なかったであろう。若い頃「お酒なんて世の中になくともかまわないよ」と豪語していたのを思い出す。大量飲酒は人を変えることもよく知っているし、飲み助の介抱で苦労させられたこともしばしばであったから。生活習慣というのは恐ろしいものだ。お酒やたばこはすぐ生活習慣になってしまうものらしい。それに反して、散歩とかラジオ体操とかは生活習慣になりにくい。要するに欲望のままに生活すると生活習慣は悪い方に重なりながら、不健康を蓄積するらしい。欲望をたつことが健康によいということが真実であるらしい。これは精神的に苦痛であるのだが、それを乗り越えて、禁酒、禁煙に到達すべきなのだ・・・と賢者はしかつめらしく説く。私は、お酒が体重の増加に貢献しているのではないかと前から思っていた。ウエスト増加はいつも医師にうるさく警告されるので、「それなら、少し酒をへらしてみよう、飲まない日を作ろう」と密かに思い実行に移すことにした。食べ物を減らして、カロリー管理するのは面倒だ、毎日飲んでいるお酒を止めればそれだけカロリーが減るはずだと単純に思い実行することにした。 . . . 本文を読む