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「教育」 の徹底 よりも 「学習」 の浸透へ

2010-08-19 23:17:25 | コラム・社会
「教育」の弊害が人々の幸せを奪っている事を伝えたい。

「教育」とは、その漢字の成り立ちの通り、“えて” “てる”という立場に立っての言葉である。
つまり、教える立場の者が人を育てるという、一個人が成長していく立場から見ると、「教えて育ててあげる」というある意味で横柄で独善的な意味を持っている。

そして、その言葉から受ける印象と同じく、実際の学校での教育現場でも「教育」が行なわれており、教育機関だけでなく社会全般のシステムも「与える側」と「受ける側」に分かれている事に疑問を呈しない異様な社会が形作られているから問題だ。

本来、人が育ち成長していく能力や欲望は、自然界のどの生物種が生まれ持って備えている特質で、決して外から与えられるから育つのではない。
自らが育ちたいように育つのが本来の姿であr、最も能力を発揮しやすく生存能力も高められるものだ。

しかし、一般的な教育機関においては、教える側は職業にしているから行なっているだけであり、しかも教える側の都合によって幾つかの教科に勝手に分割しているからタチが悪い。
それでは、受ける側にとっては本来の育つ能力が発揮されないのだ。

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人は他の動物達とは大きく異なる特質を生まれながらに備えている。
それは、創造力だ。

創造力とは、新たに何かを工夫しながら作り出す能力の事だ。
例えば、文学や美術しかり、音楽や各種の運動競技もそうだ。
建築や乗り物、各種の機械や装置、衣服や通貨、政治や法律など、すべてが創造する力によって作り上げられ積み重ねられてきたものだ。

そういう人間の本質とも言える創造力は、知的好奇心や探究心をエネルギーの源として育まれ発揮されると言える。

では、「教え育てる」をテーマとして押し進められている教育は、そういう創造力を育む事を目的としているであろうか?
いや、現在の教育システムは進学や就労、資格取得のための点数判定システムで構築されており、一個人毎に異なる創造力や個性を伸ばす事に力を注いでいない。

だとすれば、義務教育期間などを経て成長した個人は、その人独自の創造力や個性を伸ばす手法を知らず、ただ社会という世界の一部品となるべく“良い子”に躾けられた動物と言っても大きな間違いでなくなるだろう。

果たして、人として生まれそれで幸せなのだろうか。

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