上り双六 東海道
五十三次 長道中
ふつたさいころ ころがして
目数かぞへて
急ぎやんせ 急ぎやんせ
この歌知っていますか?水谷まさる作詞、中山晋平作曲の「道中双六」(1928年【昭和3年】)である。曲は以下参考の※:「d-score 楽譜 - 道中双六」で、試聴ける。
作曲家の中山晋平については、よく知っていても、作詞家の水谷まさるについては、知っている人も少ないと思うが、幼児と一緒になって遊ぶとき「あがり目、さがり目、ぐるっとまわってニャンコの目」と歌っている童謡(「あがり目さがり目」)の作詞家と言えば「あ!そうか。」と思われるのではないかな・・・?この歌も中山晋平が作曲している。歌詞は参考の※:「d-score あがり目さがり目」参照、又、水谷まさるの略歴については、以下参考の※:「青空文庫:作家別作品リスト:No.1074:水谷 まさる」をみるとよい。
“むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あったのであるが、いまは廿七間しかない。それだけ川幅がせまくなったものと思わねばいけない。このように昔は、川と言わず人間と言わず、いまよりはるかに大きかったのである。この橋は、おおむかしの慶長七年に始めて架けられて、そののち十たびばかり作り変えられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災のときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の竜の翼が、焔(ほのお)に包まれてまっかに焼けた。私の幼時に愛した木版の東海道五十三次道中双六(すごろく)では、ここが振りだしになっていて、幾人ものやっこのそれぞれ長い槍を持ってこの橋のうえを歩いている画が、のどかにかかれてあった。・・・・”
これは、昭和を代表する小説家の1人でもある太宰治の初めての作品集「晩年」(砂子屋書房、1936【昭和11】年)に収録されている「葉」から抜粋したものである(以下参考の※:「青空文庫:「葉」太宰治」参照)。
「道中双六」というのは江戸時代に流行った双六(すごろく)で、江戸・日本橋をスタートに東海道五十三次の絵を順次渦巻き形に描いた絵を進んで、京都の京橋で上がりになる絵双六といわれるもののことである。
「子供等に双六まけて老いの春」(高浜虚子)
俳人高浜虚子の句にも見られるように、「双六」は俳句の新年の季語でもあり、当時の子供たちというか、第二次世界大戦後の私たちが子供の時代においても正月の定番の遊びであったが、正月の子供の遊びとしても今やマイナーな存在となってしまい童謡の「道中双六」も知る人は少なくなってしまっている。
「すごろく」とはサイコロ(骰子、賽子)を振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づけるボードゲームであるが、日本では「雙六」と書かれた盤双六(ばんすごろく)と後世に発生して単に「双六」と称した絵双六(えすごろく)の2種類があった。この絵双六が、先に書いたものである。
奈良朝以前に中国から伝来し、平安時代より「盤双六」また「雙六」の名で流行していたものは、中国で双陸・雙陸と呼ばれていたものであり、これは古い形のバックギャモンの和名である。
中国語での「陸」は「六」の意味を表している。つまり双陸・雙陸は、「六が二つある」と言う意味で、振って出る最大の数を表しているようだ。(数字の六については、以下参考の※:47ニュース「漢字物語」参照)。
すごろく(雙六・双六)の名の由来は、サイコロを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「雙」・「双」は同じ意味を持つそうだ)という。
「すごろく」の起源を遡れば古代エジプトで遊ばれたセネトという遊びであるとされているが、後の盤双六の原型と呼ばれるものはローマ帝国で遊ばれた12×2マスの遊戯盤とされているようだ。これがシルクロードを経由してインドなどから中国に伝わった。日本に伝わったものとしては、東大寺正倉院に生前の聖武天皇が遊んだとされる螺鈿や紫檀の細工を凝らした豪勢な盤双六が納められている。
『源氏物語』では、次の帖に双六の記載がみられる。
12帖「須磨」では光源氏の親友であり義兄であり政敵であり、また恋の競争相手でもある頭中将(とうのちゅうじょう)(当時は三位中将)が須磨を訪れたとき、源氏の生活を描写した場面では、双六が、碁と並んで、須磨でのわび住まいのつれづれを慰めるものとして描かれており、46帖「椎本」でも、宇治の山荘で、薫が幼馴染の匂宮を迎える場面で、碁と共に、双六などを取り出して、思い思いに好きなことをして一日を暮らしたことが書かれている。又、第26帖「常夏」では、内大臣(かつての頭中将)が、外腹の娘である近江の君を引き取り置いていたが、これがなかなかおしとやかとはいえない姫で、一番の頭痛のタネとなっており、その近江の君の所を訪れると、近江の君と女房の五節の君が双六に夢中になっているところを覗く場面がある。
ここでは、近江の君は、相手に小さい目が出るようにもみ手をしながら「小賽小賽」(小さい目小さい目)と早口におまじないを唱えながら双六に興じており、それに対して、対戦相手である五節の君も負けじとばかりにはしゃいで、「お返しや、お返しや」と、筒をひねってすぐには打ちだそうとしない様が描かれている。この場面では、近江の君が少々品に欠ける人物ととして扱われているようであり、貴族社会では女性の双六遊びなどは碁などと比較して品格の落ちる遊びと考えられていたことが窺えるが、35帖「若菜」(下)にも近江の君が登場する場面がある。当時、光源氏との間に生まれた明石の女御が、東宮(後の帝)の男御子を出産するといったすばらしい幸運に恵まれた女性である明石の君(尼君)は、何事につけて、世間話の種となり幸福な人のことを「明石の尼君」という言葉もはやっていた。太政大臣家(当時致仕の大殿と呼ばれていた頭中将のことをいっている)の近江の君は双六の勝負の賽(さい)を振る前には、「明石の尼様、明石の尼様」と呪文を唱えて良い目を願ていたことが書かれており、彼女が根っからの双六好きとして描かれている。
盤双六は、双六盤の中央に骰子(シャイツ=賽【サイ】。サイコロ)を置く場を設け、左右に12区分したマスに各15の黒白の石を並べ、一本の賽筒に入れた2個の骰子を交互に振り出し、その目の数だけ駒を進め、敵陣に全部進めたら勝ちとしていたようだ。最も、ルールはこの他にもいろいろあるようだが、このゲームの進行に際しては複雑な思考と同時に、サイコロの偶然性に頼る要素が大きく、ただゲームとして楽しむだけでなく、日本に入ってきた当時から男どもには賭博(とばく)として行われることが多く、当時の人を夢中にさせていたようである。
日本に現存する最古の歌集『万葉集』巻第十六には「双六・雙六」を詠んだ歌も2首見える(以下参考の※:万葉集より)。
3827 [原文]二之目 耳不有 五六三 四佐倍有<来> 雙六乃佐叡
[訓読]一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六のさえ
3838[原文]吾妹兒之 額尓生<流> 雙六乃 事負乃牛之 倉上之瘡
[訓読]我妹子が額に生ふる双六のこと負の牛の鞍の上の瘡
3839[原文]吾兄子之 犢鼻尓為流 都夫礼石之 吉野乃山尓 氷魚曽懸有
[訓読]我が背子が犢鼻(ふさき)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる
3827の双六の「さえ」は「さい=采。賽/〈骰子〉」、つまり、サイコロのことであり、双六のサイコロは、目が一二だけでなく,五六,三四と出る面白いものだといった意味の軽いもので、サイコロの目と人間の目(2つしかない)を引っ掛けた軽い歌のようだ(作者は長忌寸意吉麻呂)。
3838の歌は、「心の著(つ)く所なき歌」の一首で、「わが妻の額に生えている双六の大きな牛の鞍の上にできた腫れ物よ」といったような意味のない歌であるが、この歌は、「意味の分からない歌を歌ったら褒美を与える、と舎人親王が言ったので、安倍朝臣子祖父(あべの‐こおじ)という人が詠んだ2首で、銭二千文という大金を褒美として与えられたというが、どうも意味がよくわからない。特に次の3839の歌など全く意味が分らない。この分らない歌については、以下参考の※:「クレオールタミル語による記紀万未詳語の解読」の中の万葉集難解歌の解読で詳しく考証しているが、万葉集の時代、すでにシナ(中国)語は日本語の50%を占めるに至っていたといい、日本語の祖語となったとする説もあるタミル語を元に解釈すると、3838の「双六」についてであるが、“双六は、賭博性が強いことからから古代では「双六=ギャンブル」と捉えられていたようであり、ギャンブルのことをタミル語でcUtu[gambling(賭博)]と言い、一方、毛の房、毛の茂み(hair-tuft)のことをcUTuと言うため、発音が違うが、クレオールタミル語としての日本語では同音となり得、これを毛の茂みと解釈すると、なんと「わが妻の丘に生えている毛の茂みの逞しい造りの中央の女陰の上の腰巻」となるそうだ。それに続いて、次の3839で詠んだ歌は、「私の亭主がフンドシにするピンク色の布の裂け目の広がりから陽物が垂れ下がっている」という意味となる・・・のだとか。そうだとすれば、結構、露骨な内容の歌だが、双六に引っ掛け、タミル語を利用して、サラッとエッチな歌を詠んでいるところなど、万葉人の表現力の豊かさに驚かされる。今の時代の芸のないタレントの馬鹿げたギャグでしか笑えない人達には、通じない万葉人の高等なギャグだよね~。当時こんなタミル語が普及していたことが、大和言葉の多くが死語となったためと思われるともこのHPの管理人は解説しているのだが・・。
「双六」が中国より入ってきて以来賭博として流行していたため、財産を失う者も続出したのかもしれない。そのために禁制をしなければならなくなったのであろう。日本最古の勅撰正史『日本書紀』持統3年(689年)12月8日に「禁断雙六」の記述があるように、持統天皇の治世には、早くも雙六(盤双六)賭博禁止令が出されており、『日本書紀』に続く『>続日本書紀』卷十九でも天平勝宝6年(754年)10月には、聖武天皇の娘である孝謙天皇が在位中に官人百姓共に熱中して双六に興ずるので罰則を科したことが記されている(以下参考の※:続日本紀参照)。又、『平家物語』(巻1)に、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と述べたという逸話がある。賀茂河の水とは賀茂川(鴨川)の水のことであり、鴨川の流れとそれによる水害を意味しており、双六の賽とはサイコロのことであり、双六賭博の流行とも。山法師とは比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことであり、白河法皇がこの三つだけはどうしようもないと嘆いたといわれ、「天下の三不如意」としてよく知られているが、これは、あくまで、それ以外のものであれば思い通りにならない事はないという彼の比喩的な言であろう。
しかし、雙六などの賭博は、その後も再三にわたって禁止されながらも、身分の差無く庶民にまで広まり行なわれていたことがいろいろな物語や古文書にも記されている。
文章博士・大学頭などを経て、醍醐天皇の侍読(じとう)ともなった平安時代前期から中期にかけての公卿・文人である紀長谷雄((き の はせお)にまつわる絵巻物『 長谷雄草紙』がある。南北朝時代頃の作と言われるが作者は不明。紀長谷雄に関する怪異な物語を題材に詞(ことば)・絵各5段からなる。
”双六の名手でもある長谷雄のもとに、あるとき、双六の勝負を申し込んだ男が居た。この男実は朱雀門の鬼であった。その男を怪しみながらも、勝負を受けて立ち、勝負の場として連れてこられた朱雀門の上でこの男(鬼)と双六の勝負をし、長谷雄は勝負に全財産を賭け、男(鬼)は絶世の美女を賭ける。男は、対局が不利になるにつれ、鬼という本来の顔を見せるが、長谷雄はそのようなことに動じずに対局を続け、勝負に勝つ。鬼の賭け物の美女を得た長谷雄が、鬼との約束を破って100日満たぬうちにこれと契ると、女はたちまち水と化して流れうせた”といった内容を描いている。
冒頭左の画像が紀長谷雄と朱雀門の鬼の双六勝負の絵である(絵巻物の詳しい絵と詞は以下参考の※:「長谷雄草紙【絵巻物】」を参照されるとよい。又、この絵巻 『長谷雄草紙』について、かなり、突っ込んだ考察をしているページがある。以下である。
※:鬼のいる光景 ―絵巻 『長谷雄草紙』を読む
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn124.html
この解説にもあるように、双六の対局は、必ずしも賽の目さえ良ければ勝つという結果になるとは限らず、与えられている目をいかに計算深く応用し、相手の予想がつかない結果を引き出すかには、双六をうつ人の本領が問われるが、もっと上等な技を身につけていれば、賽の目さえ意のままに出せるようになり、平安後期、双六の練達な人・・芸の達人の中には双六を仕事にさえしている人がいたという。長谷雄の邸宅まで訪れてきて、対局を挑む男の振る舞いには、そのような者を思わせたが、そんな双六男の挑戦に対して、迷わずに応戦したことは、双六と言う舶来の大陸文化を模擬体験し身につけた長谷雄の洗練された貴族的な自己表現であり、一芸のプロに対する文化人としてのプライドと優位の主張であるようだとする。彼は当時百の芸をこなせる達人だと喧伝されていたようで、この絵物語は、そんな文化的で貴族的な姿勢に由来するものであると括っている。なかなか面白いので、興味のある人は一度ここを読んでから、先に紹介した絵巻を見ると面白いのではないか。
室町時代の頃には、この盤双六は完全にバクチ(賭博)と化してしまい、その後の江戸時代には、盤双六は廃れ、双六の道具の一部であったサイコロのみで、賭ける・・・、あの時代劇などででよく見られる「丁か?半か?」のバクチの世界が生まれてくることになる。そして、盤双六が廃れる一方で、正月などに馴染みのあっった双六『絵双六』が登場してきた。この形の双六は、寛文年間の『仏法双六』と呼ばれる物が最初とされているようだ。仏法双六は、わかりやすい絵が書かれた物で、「良い目が出ると極楽に行き、悪い目が出ると地獄に落ちる」というもので、これは天台宗の教えを、若い僧に目で見てわかるように教える教材として生まれた物だったそうだ。やがて、江戸時代には、「江戸をスタートして京都であがり」となる先に紹介した「道中双六」や、立身出世を取り上げた「出世双六」などとよばれる双六が、子供の遊びの定番として今に伝えられるようになった。双六のこと詳しくは、以下参考の、※:「双六ねっと」や、※:「講演「絵双六の世界」:学芸大図書館」など参考にされると良い。
(画像右:、『長谷雄草紙負』紀長谷雄と朱雀門の鬼の双六勝。Wikipediaより、左:「五拾三次新版道中双六」著者名:一登斎芳綱、出版者:遠州屋彦兵衛、出版年:嘉永5。国立国会図書館蔵)
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五十三次 長道中
ふつたさいころ ころがして
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この歌知っていますか?水谷まさる作詞、中山晋平作曲の「道中双六」(1928年【昭和3年】)である。曲は以下参考の※:「d-score 楽譜 - 道中双六」で、試聴ける。
作曲家の中山晋平については、よく知っていても、作詞家の水谷まさるについては、知っている人も少ないと思うが、幼児と一緒になって遊ぶとき「あがり目、さがり目、ぐるっとまわってニャンコの目」と歌っている童謡(「あがり目さがり目」)の作詞家と言えば「あ!そうか。」と思われるのではないかな・・・?この歌も中山晋平が作曲している。歌詞は参考の※:「d-score あがり目さがり目」参照、又、水谷まさるの略歴については、以下参考の※:「青空文庫:作家別作品リスト:No.1074:水谷 まさる」をみるとよい。
“むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あったのであるが、いまは廿七間しかない。それだけ川幅がせまくなったものと思わねばいけない。このように昔は、川と言わず人間と言わず、いまよりはるかに大きかったのである。この橋は、おおむかしの慶長七年に始めて架けられて、そののち十たびばかり作り変えられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災のときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の竜の翼が、焔(ほのお)に包まれてまっかに焼けた。私の幼時に愛した木版の東海道五十三次道中双六(すごろく)では、ここが振りだしになっていて、幾人ものやっこのそれぞれ長い槍を持ってこの橋のうえを歩いている画が、のどかにかかれてあった。・・・・”
これは、昭和を代表する小説家の1人でもある太宰治の初めての作品集「晩年」(砂子屋書房、1936【昭和11】年)に収録されている「葉」から抜粋したものである(以下参考の※:「青空文庫:「葉」太宰治」参照)。
「道中双六」というのは江戸時代に流行った双六(すごろく)で、江戸・日本橋をスタートに東海道五十三次の絵を順次渦巻き形に描いた絵を進んで、京都の京橋で上がりになる絵双六といわれるもののことである。
「子供等に双六まけて老いの春」(高浜虚子)
俳人高浜虚子の句にも見られるように、「双六」は俳句の新年の季語でもあり、当時の子供たちというか、第二次世界大戦後の私たちが子供の時代においても正月の定番の遊びであったが、正月の子供の遊びとしても今やマイナーな存在となってしまい童謡の「道中双六」も知る人は少なくなってしまっている。
「すごろく」とはサイコロ(骰子、賽子)を振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づけるボードゲームであるが、日本では「雙六」と書かれた盤双六(ばんすごろく)と後世に発生して単に「双六」と称した絵双六(えすごろく)の2種類があった。この絵双六が、先に書いたものである。
奈良朝以前に中国から伝来し、平安時代より「盤双六」また「雙六」の名で流行していたものは、中国で双陸・雙陸と呼ばれていたものであり、これは古い形のバックギャモンの和名である。
中国語での「陸」は「六」の意味を表している。つまり双陸・雙陸は、「六が二つある」と言う意味で、振って出る最大の数を表しているようだ。(数字の六については、以下参考の※:47ニュース「漢字物語」参照)。
すごろく(雙六・双六)の名の由来は、サイコロを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「雙」・「双」は同じ意味を持つそうだ)という。
「すごろく」の起源を遡れば古代エジプトで遊ばれたセネトという遊びであるとされているが、後の盤双六の原型と呼ばれるものはローマ帝国で遊ばれた12×2マスの遊戯盤とされているようだ。これがシルクロードを経由してインドなどから中国に伝わった。日本に伝わったものとしては、東大寺正倉院に生前の聖武天皇が遊んだとされる螺鈿や紫檀の細工を凝らした豪勢な盤双六が納められている。
『源氏物語』では、次の帖に双六の記載がみられる。
12帖「須磨」では光源氏の親友であり義兄であり政敵であり、また恋の競争相手でもある頭中将(とうのちゅうじょう)(当時は三位中将)が須磨を訪れたとき、源氏の生活を描写した場面では、双六が、碁と並んで、須磨でのわび住まいのつれづれを慰めるものとして描かれており、46帖「椎本」でも、宇治の山荘で、薫が幼馴染の匂宮を迎える場面で、碁と共に、双六などを取り出して、思い思いに好きなことをして一日を暮らしたことが書かれている。又、第26帖「常夏」では、内大臣(かつての頭中将)が、外腹の娘である近江の君を引き取り置いていたが、これがなかなかおしとやかとはいえない姫で、一番の頭痛のタネとなっており、その近江の君の所を訪れると、近江の君と女房の五節の君が双六に夢中になっているところを覗く場面がある。
ここでは、近江の君は、相手に小さい目が出るようにもみ手をしながら「小賽小賽」(小さい目小さい目)と早口におまじないを唱えながら双六に興じており、それに対して、対戦相手である五節の君も負けじとばかりにはしゃいで、「お返しや、お返しや」と、筒をひねってすぐには打ちだそうとしない様が描かれている。この場面では、近江の君が少々品に欠ける人物ととして扱われているようであり、貴族社会では女性の双六遊びなどは碁などと比較して品格の落ちる遊びと考えられていたことが窺えるが、35帖「若菜」(下)にも近江の君が登場する場面がある。当時、光源氏との間に生まれた明石の女御が、東宮(後の帝)の男御子を出産するといったすばらしい幸運に恵まれた女性である明石の君(尼君)は、何事につけて、世間話の種となり幸福な人のことを「明石の尼君」という言葉もはやっていた。太政大臣家(当時致仕の大殿と呼ばれていた頭中将のことをいっている)の近江の君は双六の勝負の賽(さい)を振る前には、「明石の尼様、明石の尼様」と呪文を唱えて良い目を願ていたことが書かれており、彼女が根っからの双六好きとして描かれている。
盤双六は、双六盤の中央に骰子(シャイツ=賽【サイ】。サイコロ)を置く場を設け、左右に12区分したマスに各15の黒白の石を並べ、一本の賽筒に入れた2個の骰子を交互に振り出し、その目の数だけ駒を進め、敵陣に全部進めたら勝ちとしていたようだ。最も、ルールはこの他にもいろいろあるようだが、このゲームの進行に際しては複雑な思考と同時に、サイコロの偶然性に頼る要素が大きく、ただゲームとして楽しむだけでなく、日本に入ってきた当時から男どもには賭博(とばく)として行われることが多く、当時の人を夢中にさせていたようである。
日本に現存する最古の歌集『万葉集』巻第十六には「双六・雙六」を詠んだ歌も2首見える(以下参考の※:万葉集より)。
3827 [原文]二之目 耳不有 五六三 四佐倍有<来> 雙六乃佐叡
[訓読]一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六のさえ
3838[原文]吾妹兒之 額尓生<流> 雙六乃 事負乃牛之 倉上之瘡
[訓読]我妹子が額に生ふる双六のこと負の牛の鞍の上の瘡
3839[原文]吾兄子之 犢鼻尓為流 都夫礼石之 吉野乃山尓 氷魚曽懸有
[訓読]我が背子が犢鼻(ふさき)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる
3827の双六の「さえ」は「さい=采。賽/〈骰子〉」、つまり、サイコロのことであり、双六のサイコロは、目が一二だけでなく,五六,三四と出る面白いものだといった意味の軽いもので、サイコロの目と人間の目(2つしかない)を引っ掛けた軽い歌のようだ(作者は長忌寸意吉麻呂)。
3838の歌は、「心の著(つ)く所なき歌」の一首で、「わが妻の額に生えている双六の大きな牛の鞍の上にできた腫れ物よ」といったような意味のない歌であるが、この歌は、「意味の分からない歌を歌ったら褒美を与える、と舎人親王が言ったので、安倍朝臣子祖父(あべの‐こおじ)という人が詠んだ2首で、銭二千文という大金を褒美として与えられたというが、どうも意味がよくわからない。特に次の3839の歌など全く意味が分らない。この分らない歌については、以下参考の※:「クレオールタミル語による記紀万未詳語の解読」の中の万葉集難解歌の解読で詳しく考証しているが、万葉集の時代、すでにシナ(中国)語は日本語の50%を占めるに至っていたといい、日本語の祖語となったとする説もあるタミル語を元に解釈すると、3838の「双六」についてであるが、“双六は、賭博性が強いことからから古代では「双六=ギャンブル」と捉えられていたようであり、ギャンブルのことをタミル語でcUtu[gambling(賭博)]と言い、一方、毛の房、毛の茂み(hair-tuft)のことをcUTuと言うため、発音が違うが、クレオールタミル語としての日本語では同音となり得、これを毛の茂みと解釈すると、なんと「わが妻の丘に生えている毛の茂みの逞しい造りの中央の女陰の上の腰巻」となるそうだ。それに続いて、次の3839で詠んだ歌は、「私の亭主がフンドシにするピンク色の布の裂け目の広がりから陽物が垂れ下がっている」という意味となる・・・のだとか。そうだとすれば、結構、露骨な内容の歌だが、双六に引っ掛け、タミル語を利用して、サラッとエッチな歌を詠んでいるところなど、万葉人の表現力の豊かさに驚かされる。今の時代の芸のないタレントの馬鹿げたギャグでしか笑えない人達には、通じない万葉人の高等なギャグだよね~。当時こんなタミル語が普及していたことが、大和言葉の多くが死語となったためと思われるともこのHPの管理人は解説しているのだが・・。
「双六」が中国より入ってきて以来賭博として流行していたため、財産を失う者も続出したのかもしれない。そのために禁制をしなければならなくなったのであろう。日本最古の勅撰正史『日本書紀』持統3年(689年)12月8日に「禁断雙六」の記述があるように、持統天皇の治世には、早くも雙六(盤双六)賭博禁止令が出されており、『日本書紀』に続く『>続日本書紀』卷十九でも天平勝宝6年(754年)10月には、聖武天皇の娘である孝謙天皇が在位中に官人百姓共に熱中して双六に興ずるので罰則を科したことが記されている(以下参考の※:続日本紀参照)。又、『平家物語』(巻1)に、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と述べたという逸話がある。賀茂河の水とは賀茂川(鴨川)の水のことであり、鴨川の流れとそれによる水害を意味しており、双六の賽とはサイコロのことであり、双六賭博の流行とも。山法師とは比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことであり、白河法皇がこの三つだけはどうしようもないと嘆いたといわれ、「天下の三不如意」としてよく知られているが、これは、あくまで、それ以外のものであれば思い通りにならない事はないという彼の比喩的な言であろう。
しかし、雙六などの賭博は、その後も再三にわたって禁止されながらも、身分の差無く庶民にまで広まり行なわれていたことがいろいろな物語や古文書にも記されている。
文章博士・大学頭などを経て、醍醐天皇の侍読(じとう)ともなった平安時代前期から中期にかけての公卿・文人である紀長谷雄((き の はせお)にまつわる絵巻物『 長谷雄草紙』がある。南北朝時代頃の作と言われるが作者は不明。紀長谷雄に関する怪異な物語を題材に詞(ことば)・絵各5段からなる。
”双六の名手でもある長谷雄のもとに、あるとき、双六の勝負を申し込んだ男が居た。この男実は朱雀門の鬼であった。その男を怪しみながらも、勝負を受けて立ち、勝負の場として連れてこられた朱雀門の上でこの男(鬼)と双六の勝負をし、長谷雄は勝負に全財産を賭け、男(鬼)は絶世の美女を賭ける。男は、対局が不利になるにつれ、鬼という本来の顔を見せるが、長谷雄はそのようなことに動じずに対局を続け、勝負に勝つ。鬼の賭け物の美女を得た長谷雄が、鬼との約束を破って100日満たぬうちにこれと契ると、女はたちまち水と化して流れうせた”といった内容を描いている。
冒頭左の画像が紀長谷雄と朱雀門の鬼の双六勝負の絵である(絵巻物の詳しい絵と詞は以下参考の※:「長谷雄草紙【絵巻物】」を参照されるとよい。又、この絵巻 『長谷雄草紙』について、かなり、突っ込んだ考察をしているページがある。以下である。
※:鬼のいる光景 ―絵巻 『長谷雄草紙』を読む
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn124.html
この解説にもあるように、双六の対局は、必ずしも賽の目さえ良ければ勝つという結果になるとは限らず、与えられている目をいかに計算深く応用し、相手の予想がつかない結果を引き出すかには、双六をうつ人の本領が問われるが、もっと上等な技を身につけていれば、賽の目さえ意のままに出せるようになり、平安後期、双六の練達な人・・芸の達人の中には双六を仕事にさえしている人がいたという。長谷雄の邸宅まで訪れてきて、対局を挑む男の振る舞いには、そのような者を思わせたが、そんな双六男の挑戦に対して、迷わずに応戦したことは、双六と言う舶来の大陸文化を模擬体験し身につけた長谷雄の洗練された貴族的な自己表現であり、一芸のプロに対する文化人としてのプライドと優位の主張であるようだとする。彼は当時百の芸をこなせる達人だと喧伝されていたようで、この絵物語は、そんな文化的で貴族的な姿勢に由来するものであると括っている。なかなか面白いので、興味のある人は一度ここを読んでから、先に紹介した絵巻を見ると面白いのではないか。
室町時代の頃には、この盤双六は完全にバクチ(賭博)と化してしまい、その後の江戸時代には、盤双六は廃れ、双六の道具の一部であったサイコロのみで、賭ける・・・、あの時代劇などででよく見られる「丁か?半か?」のバクチの世界が生まれてくることになる。そして、盤双六が廃れる一方で、正月などに馴染みのあっった双六『絵双六』が登場してきた。この形の双六は、寛文年間の『仏法双六』と呼ばれる物が最初とされているようだ。仏法双六は、わかりやすい絵が書かれた物で、「良い目が出ると極楽に行き、悪い目が出ると地獄に落ちる」というもので、これは天台宗の教えを、若い僧に目で見てわかるように教える教材として生まれた物だったそうだ。やがて、江戸時代には、「江戸をスタートして京都であがり」となる先に紹介した「道中双六」や、立身出世を取り上げた「出世双六」などとよばれる双六が、子供の遊びの定番として今に伝えられるようになった。双六のこと詳しくは、以下参考の、※:「双六ねっと」や、※:「講演「絵双六の世界」:学芸大図書館」など参考にされると良い。
(画像右:、『長谷雄草紙負』紀長谷雄と朱雀門の鬼の双六勝。Wikipediaより、左:「五拾三次新版道中双六」著者名:一登斎芳綱、出版者:遠州屋彦兵衛、出版年:嘉永5。国立国会図書館蔵)
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